飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年11月4日

森 香里 (秋聲寺前坊守)

第94話 未熟であることの意味

 人の赤ちゃんは、移動はおろか、食事など、生命の維持に関するすべてにおいて、長い間、養育者に依存しなければならない未熟で無力な存在である。その一方で、外界のさまざまな刺激を取り入れる準備ができている感覚器官を持ち、優れた学習能力を備えた新しい脳(大脳)を持って生まれてくる。

 ヒトは未成熟で生まれてくるために、親からの絶え間ない養育を受けなければ生きていけない。しかしそのことが親を惹きつけ、親からさまざまなことを学習する機会となる。そしてヒトの赤ちゃんは新しい脳にさまざまなことを書き込みながら、出生後、環境に合わせる形で発達していくことができるのだ。環境に合わせて自由に形が変えられることを、「可塑性がある」というが、未成熟な赤ちゃんはまさに大きな可塑性を秘めた存在である。(田中亜裕子著『やさしく学べる乳幼児の発達心理学』)

 私たちは皆、誕生前は母胎に宿り守られ育まれ、誕生後には親や養育者からお世話されてきましたが、その覚えはありません。しかし自分が父や母となったり、育児をしている方の姿を通し、「自分もこうやってお世話をされたのだ」と感じる機会を得ることがあります。

 私たちの毎日に目を向けた時、自分が手を貸したり協力したことに対して相手が感謝の言葉や態度を示せば、私たちは満足感を得られます。しかし相手から何もなかった時には満たされない気分になり、「お礼も言わんと」と相手を詰ることもします。つまり私たちが求める謝儀が、自分の行為に対する見返り(対価・報酬)となっているから、手助けをした自分が蔑ろにされたと感じた時に不満が募るのでしょう。しかし見返りを超えた行為との遭遇は、自分が赤ちゃんだった頃に未熟で無力だからこそ養育を受けてきたことを「自分もこうやってお世話をされたのだ」という形で知らせ、私たちの言動が見返りを求める在り方に偏重していることを教えているのではないでしょうか。

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