飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年10月28日

春國文春 (玄興寺住職)

第93話 有縁に導かれて

「オーイ、ユッコ!」「オーイ、ユッコ!」

 一才の孫が私の妻を呼ぶ呼び方である。「お父さんが「おーい、有紀子」って呼ぶもんでマネするんやよ。止めてよ。」と娘に注意された。特に幼児期は周りの環境の影響を受けやすい。善悪の判断や周囲がどう感じているかなどお構いなしに、いつも傍に居る人のマネをし、やりたいように行動する。

 我々はそうやって他から知識を得、マネをしながら人として学び、それぞれの個性をもつ大人になっていく。善いことも悪いことも傍に居る大人の言動に倣い、自分のものさしが出来上がる。成長し次第に智恵がついてくれば、年相応の分別ある行動をするようになる。

 しかし、年齢を重ね認知症などになれば、なかなか分別ある言動も出来なくなる。

 以前、親が入所していた老人施設に面会に訪れた時、広場で親と同じテーブルに座っていた老女が、突然「チキショー、バカヤロー、チキショー、バカヤロー」と大声で何度も繰り返し叫び出されびっくりしたことがある。

 また別の日には、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ…ニョーライダイヒノ(如来大悲の)オンドクハー(恩徳は)」と、仏教讃歌を一人気持ちよさそうにうたってみえる方に出会(でくわ)した。

 「さるべき業縁のもよおせば いかなるふるまいもすべし」(そうなる業縁がもよおしてきたら、どんな行動もするものだ)と親鸞聖人は教示されている。

 つまり、我々の言動は、善悪のこころの及ばないことがあり、お釈迦さまの説かれる縁起の道理に随って行為されるものである。我々の分別をこえて、物事は全て原因があり縁によって結果が生じるという、因縁果の道理の中で生きているということだ。

 だからこそ、我々は善縁(善い環境)に出会うことが大切になる。たとえ善い因(たね)であっても、悪縁に会えば悪い結果となってしまう。逆に悪い因であっても善縁に会えば善果を得る。我々凡夫が仏に成るためには、念仏申すご縁に会わせていただく必要がある。それは、仏さまの名を呼び、願い(本願)を聞かせてもらう道を歩むことである。

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