2022年10月21日
内記 洸 (徃還寺衆徒)
第92話 関係ないわけ、ないでしょう
ちょうど始まったニュースの特集。「ウクライナの今」と題して、場面が次々に切り替わります。追われるように道を行く人々、また病院の廊下で、患者の乗ったストレッチャーを必死で滑らせていく医師と看護婦…。ふと気づくと、三歳の娘が私のズボンをぎゅっと掴んでいます。そして一言。「こわい。」ちょうど薄暗い防空壕に、女の子が一人。膝を抱えて座り込み、無言で涙している場面を、まっすぐ見つめていました。
昨年の秋、地元の小学一、二年生がお寺を訪ねてくれました。本堂で少しお話しした後、境内のイチョウの葉を拾って帰った子どもたち。後日、お手紙が。「お話を聞いて、なきそうになりました。」「お寺がいのちをだいじにするところときいてびっくりしました。」「びっくりしたことは、ほとけさまのゆうことをきくことです。」ごく簡単な言葉。けれど、どこでも、誰にでも通じる「悲しみ」、「気づき」、「感動」がそこにありました。
どこで、どのように感じとるか。実は大きな違いがあります。私たちにとって、ウクライナの出来事も、何百年も前にできたお寺のことも、「今、自分の目の前で起こっていること」ではない。巷で話題になっていないとき、自分の視界に入っていないとき、私たちは恐ろしいほど無関心です。「自分には関係ない。」子どもたちの言葉はそこにズバッと、「本当にそうなの?」と切り込んできます。
九月は「お彼岸」。「彼(か)の岸」の言葉通り、それは「私たちの世界」とは一線を画した「別の」世界、仏さまの世界です。バラバラに終わっていくだけの私たちの世界に、「違うよ」、「そうじゃないよ」と呼びかけてくる世界。橋はかかっていないので、渡れません。けれど「あちら岸」があることで、「こちら岸」に立つ私たちの姿がよくわかる。悲しみの世界にしっかり足を踏みしめつつ生きられるなら、それは大きな喜びです。
「イチョウがとてもきれいでした。」手紙の最後に添えられた言葉は、とても明るいものでした。