2022年9月30日
澤邊 恵亮 (誓願寺住職)
第89話 一人ひとり
今年は子供と一緒におばさんのところにジャガイモ掘りに行ったり、近所の方からいただいたりして、メークイン、男爵、きたあかり、皮の赤いジャガイモ(品種がわからない)などいろいろな種類のジャガイモをいただいた。ひとくくりにジャガイモといってもホクホクしているもの、しっとりしているもの様々で、同じフライドポテトでも品種により違いがあり食べ比べすることも楽しかった。またこの料理ならこの品種がいいと使い分けをして様々なジャガイモ料理を楽しんでおいしくいただいた。
ジャガイモならば、この品種はカリッと揚がるからフライドポテトがいいかな、これはシチューにいいなと個性に合わせて調理することもできるが、相手が人だとなかなかそうもいかない。自分の思いにあう時はいいが、人の個性に自分の思いをあわせていくということはなかなか難しい。思い通りにならないと、なぜこんなことができないのかとなってしまう。そもそも、それぞれの個性というものも私の思いのフィルターを通してみたもので、別の人から見ると別の姿が見えているのだろう。その人そのままを見ることなんてできるのだろうか。
智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ
(浄土和讃)
私の思いのフィルターを通してでしかものを見ることができない私たち一人ひとりを、阿弥陀仏の智慧の光は漏らさずそれぞれを照らしていてくださる。
お釈迦様の説かれた教えを八万四千の法門といわれる。数多く説法されたということだけでなく、その人その人、一人一人に向き合って教えを説いていかれたのだ。阿弥陀仏の光、お釈迦様の御教えを通して、私はどのように人と向き合い、自分と向き合っているのだろうかと思わされる。
ジャガイモならば芋の個性に合わせてなどといっていたが、せいぜい品種ごとにざっくりと見るだけ。さらには、あっ腐ってる、ポイッ。自分の思いでしか見てなかったな…。