2022年8月26日
窪田 美幸 (圓徳寺坊守)
第85話 寄り添うひとりと
小学生の頃、私は一部の同級生からいじめを受けていました。身体の特徴をからかわれ、無視され、避けられ、なぜこんな目に遭わなければならないのかと毎日憂鬱でした。
遅くまで勤めてくる両親に話すと心配させてしまうので、色んな理由をつけては何も問題がないふりをしました。それでも学校へ行けていたのは、ごく少数の友達の存在があったからです。変わらず接してくれる友達が、何よりも私の救いでした。
中学校に進学すると学区の関係で生徒も分散し、私がいじめを受けることはなくなりました。同級生のS君が男子学生数名から、毎日プロレスの技をかけられる側でいることに気も留めぬまま、あっという間に高校生になったある日、S君が神社で自らの命を絶ったと知らされました。
愕然としました。S君は毎日学校には通っていたし、技をかけられていても泣いたり怒ったりはしていませんでした。しかし今思えば、毎日、各時限の間にある10分間の短い休憩時間が、彼にとってはどれだけの長い苦痛の時間であったか・・・。
誰かがいじめに気付いていたなら最悪の結果は免れたかもしれない、と思いながらハッとしました。私も見ていたではないかと。しかし、S君が言葉に出来なかった思いには、目を向けることもなかったのです。彼の孤独は、沢山のクラスメイトに囲まれていながらも感じていた、強烈な孤独であったに違いありません。
親鸞聖人の遺言、「御臨末の御書」に、「一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり。」と書かれています。一人いるときは二人、二人の時は三人と思ってください。嬉しい時も悲しい時も、決してあなたは一人ではありません。いつもそばに親鸞がいますよ、という意味です。
今、孤独を感じていたなら、この言葉を思い出して欲しい。今度こそそこに私も一人、加わりたいと思うのです。