2022年8月19日
三島大遵 (真蓮寺住職)
第84話 母なる人
折にふれて憶い出すことがある。今からちょうど十五年前、中国留学中に知り合った韓国の友人を日本へ連れてくることになった。格安チケットをとってまずは東京へ。異国の地へ行くわけなので、韓国のご両親もさぞ心配されることだろうと思い、友人には逐一電話連絡をさせるようにした。「無事着いた」「今ここに居る」と、その一言だけでいいのだが、そうさせることが私の責務のように感じていた。というのも、私もいつも遠くへ出かける時は、安否報告をせよと教えられてきたからだろうと思う。
東京を知らない人間が東京を案内するという難題をこなして高山へ。到着すると、玄関先で母と祖母にひどく叱られてしまった。そう、私自身が連絡をしていなかったのだ。いついつ日本に帰るとは伝えていたものの、「無事着いた」の一言を怠った。友人の心配ばかりしていたが、私も心配されている一人だった。ここ数日は心配で寝られなかったとのこと。そして「仏さまが現れたと思った」と安堵していた。
・・・・・・
私たちはいつも、何かと心配事を抱えながら生きている。そしてその心配をかき消すため準備に追われる日々。一つ終えてもまた一つと、心配事は無くならない。しかし、自分が何かを心配している時は、おそらく自分が心配されていることには気づいていないだろう。たとえ私自身が自分に気をかけていなくても、私という存在を気にかけ、心配してくれるひとがいる。私より私を心配する、そんな母なるひとがいる。
私を決して見捨てないはたらきを阿弥陀仏の大慈悲心という。私はもう、母にも祖母にも姿を通して会うことはできないのだが、「大(だい)悲(ひ)無(む)倦(けん)常(じょう)照(しょう)我(が)」(正信偈)大いなる慈しみは、あくことなく常に私を照らしている。心配ばかりかけるこんな私を「仏さま」にまでしてもらったのだ。私もまた、その大悲の中に「仏さま」と会わせてもらおう。
十億の人に十億の母あらむも わが母にまさる母ありなむや(暁烏敏)
来月は祖母の三回忌だ。