2022年7月15日
窪田 純 (圓德寺住職)
第79話 浄土の荘厳(しょうごん)
お寺の本堂やご家庭の仏壇(お内仏)に、仏具やお花などをお飾(かざ)りすることを荘厳という。「厳(おごそ)かに飾ること」の他に、「整える」という意味も持つ。手が合わさる場を整えていくことはもちろん、仏に向き合うにふさわしい、僧侶としての身なり、所作、作法も整えなくてはならないと、私は考える。姿勢を保つ筋力や肺活量を整えるために、荘厳と称したランニングを続けている。
しかし、荘厳する私は「孤独」だった。苦しみは誰にも代わってもらえない。また、苦しみを乗り越えて得られた成果が、誰かを幸せにした実感もない。それどころか、自身を荘厳し(整え)ようとしない他者を否定するようにもなった。自分を是(ぜ)とし、他者を非(ひ)として排除(はいじょ)することで、自ら孤独に向かって進んでいたのかも知れない。
そんな私に、昨年の春、友人ができた。近所の小学六年生、陸上選手のユージンくんである。「住職さん!一緒に走ろ!」と彼から誘ってくれた。ご両親より歳の離れた私に声をかけるのに、勇気が要ったことだろう。とても嬉しかった。
彼は、走るのが大好きで、とても速い。小さい体で、力いっぱい大地を蹴り、宙をすべるように前進する。引力によって落下した足は、大地がしっかり受け止める。走る姿の美しさも目に映るが、足もとから呼びかける大切な声があるように感じた。走るたびに私を苦しめると思っていた道は、実は苦しんでいる私に寄り添い、いつでも支え続けてくれた大地なのだ、と。
理想とする自分になるために、自分を飾り、整えることが荘厳ではなかった。「聞く」ことが大切とされる浄土真宗では、荘厳もまた、聞くためにある。仏の願いの大地(浄土)を表現する荘厳を通じて、浄土に我が身を聞くのである。常に私に問いかけながらも、決して見放すことのない大地に触れる荘厳には、孤独とは相反する、にぎやかさがあるのだろう。
ある日、PTAの仲間から、小声で「クボタさん、私たちの知らないお子さんいます?周りでウワサになってて・・・」と聞かれた。どうやら私たちの荘厳は、周りもにぎやかにしていたようだ。