2022年7月8日
達 顕信 (高山教務支所)
第78話 真理をきく
浄土真宗では「聴聞(ちょうもん)」と言って、「きく」ということを大切にしている。それは、仏法をきくということだけではなく、人の話しや日々の出来事に耳を傾け、自分自身の内なる声をきいていく、ということだ。
また「きく」に3つの段階がある。それは「聞・聴・聞」という順であって、それぞれ大きな違いがある。最初の「聞」は器官で聞く。いわば空耳。「聴」は聴診器というように、注意して聞く。最後の「聞」は心で聞く。
最近、健康診断があって色々と引っかかるところが増えてきた。順調に年をとっていると言えばそれまでだが、中々納得もできず、まだまだと思う心が芽生えてしまう。そして、悪かった数値をどうにか良くしようと、その解消方法を調べると、適度な運動と食事の見直し、ということだった。早速、次の日からウォーキングを始めるのだが、そこであることに気が付いた。
それは、普段車を運転していた時は、歩道のない道を歩いている人がいると「邪魔だなぁ」と思っていたものが、いざ歩行者の立場になってみると、走っている車が邪魔に思えてならなかった。つまり、その時々の自分の都合や立場でしか物事を考え、物を見、物を聞くことが出来ていなかった、ということに深く気が付いた。そしてこれが「心に聞く、うなずく」ということなのだと思った。
先日、こんなことを教えてもらった。「年老いたら顔つき、体つきは変わってくるが、耳の形は変わらない。であるならば、私たちのこの耳は、なんのためについているのか。それは不変の真理を聞くためについている」と。
「真理」とは、我が身に振り当てて言うと、自分の勝手さ、都合の良さを知らしてくるはたらきを指しているのだと、私は「心」に「聞」かせてもらった。