2022年6月30日
三島 多聞 (高山別院輪番)
第77話 寿命を生きる
大和(日本)ことばの「いのち」はいい響きだ。いろんなところで使う。例えば、この仕事は私の「いのち」、あの方は私の「いのち」、芸術の「いのち」・・・など。
人の「いのち」は身体上の「いのち」と精神上の「いのち」との両者をもって「人のいのち」としている。ここを漢字で言うと「寿命」です。
「命」は肉体上のいのちを指す。父母からいただいた「いのち」。「長命・短命」がある。長短で限定される、限りある生命です。
「寿」は精神上のいのちを指す。尽きぬ喜び、生きる光などのことを指す。ところが「長寿・天寿」とはいうが「短寿」とは言わない。長短で比較限定されない、限りなき寿(喜び)のいのちです。
この「寿」と「命」を合体させると「親からもらった限りあるいのちに、限りなき喜びを生きる」ことが、”いのち“と言うことであります。
しかるに、多くの人は「寿命には勝てん。寿命だから仕方がない」と言う。「命」の事だけ言って、「寿」が無くなっている。特に人が亡くなった時に言う。最後は「物」あつかいになり、遺体処理になってしまう。言うなら、“個人は寿命を全うしました”というべき。決して“寿命には勝てん”とか、“仕方がない”という表現は慎むべきと思います。ましてや、喪主に“寿命やであきらめんさい”などと、口が裂けても言うべきではない。個人をもの扱いにしたことになる。
更に言えば、限りなき寿のいのちを「無量寿」と言います。梵語で“アミダ”という。念仏を生きた方を“寿命を生きた方”という。