飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年6月17日

三島 見らん (西念寺住職)

第75話 本当は何も知らない

ずいぶん前の新聞に、「なぜ学校で哲学を教えるのだ」と聞かれた教師が「例えば公務員、彼らは市民の幸せを実現する仕事を担っている。しかし、彼らが「幸福とは何か」ということを一度も吟味したことがなければ、どうなるか」と返した。みなさんは、多くの事柄を「常識」のこととして一度も考えることもなく片付けてはいないだろうか。

ご存知だと思うが、浄土真宗の儀式では多くの僧侶が登場する。本尊(仏像)をちょうど囲むようにして座しているのは、ちょうどお釈迦さまの説法を聴聞している形を再現している。このスタイルを儀式に取り入れたのは大昔、中国の善導というお坊さんで、『法事讃』という書物にそれが載っている。ただ、この書物では帝釈天・四天王といういわゆるインドの神々がお釈迦さまを囲っていると記されてある。つまり儀式での僧侶達は、この「神々」の役回りを演じているということだ。ここで大事なのは、この「神々」は一体どのような存在かというと「世を護る責任を負っている者」である。引き寄せて考えるとそれは政治家、公務員、教師、学者、親等々に当たるのだろう。そう、この神々は護世の任にありながら「護世」をまったく分かっていないのである。だから、仏に教えてもらっているのだ。

浄土が建立される前、(浄土を建立した)阿弥陀仏は世自在王仏という方のもとで多くの仏が建てた国土を一つ、また一つと見せられたようである。「この仏が願った国は素晴らしかったが、欠点があった。ほら、見てごらん」と。阿弥陀仏はそこで「多くの歴史に学んだ」のだと私は思っている。

世界の叡智を集め、永い努力の積み重ねによって築き上げられてきた世界の均衡が、今一国の指導者の暴走によって呆気なくも崩れ去ろうとしている。「核は抑止力という常識」が生み出した平和はまさに「まやかし」だったのだ。考えることをやめ、「護世」を知っていると思い上がった人間の罪は重い。

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