飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年6月24日

岩佐 幾代 (淨永寺坊守)

第76話 「南無阿弥陀仏」の鏡

人は生まれたら、必ず出遇わなければならない方(ひと)があります。それは、神・仏です。そして、神・仏から映し出された自分自身です。仏様とは、慈悲と智慧の方です。誰一人置き去りにしないのが、仏様のお姿です。

中国、隋の善導大師は『経・教は鏡の如し』と言われました。私たちは、朝、顔を洗います。そして鏡を見ます。鏡は、私の姿を映し出します。しかし、私の中味までは映し出してくれません。中身を映し出すのは、仏様の智慧の鏡なのです。だから私たちは、朝、お仏壇にお参りするのです。そして、ご先祖様・仏様と向き合うのです。その時「ご先祖様、今日は〇〇です」とか「仏様、今日は〇〇です」など、別々の言葉はいりません。ただ一言「南無阿弥陀仏」を称うればいいのです。仏様は既に、私たちのあり様をお見通しですから、ただ一言「南無阿弥陀仏」で良いのです。

仏教では、此土(しど)を「娑婆・堪忍土(かんにんど)」と言います。なぜ堪え忍ばなくてはならないのでしょうか。それは、一人ひとりだということです。

私たちは、強い自我を持った存在です。自分は絶対正しいという価値観(自分の物差し)で以て、自分中心に生きています。すると、隣の人と物差しが合わないのです。則ち、価値観は各々ですから、私を優先すれば当然衝突が起きます。そこで我慢すれば我慢した私が残ります。

人生は思い通りにならない「苦の土」なのです。だから「娑婆・堪忍土」というのです。特に現代人は機械に振り回され、気が短くなり、イライラ病を発しています。そのため自分が見えなくなっているのです。そんな忙しい中にも、仏の教えに遇うことができます。それは、たった6字の「南無阿弥陀仏」です。すると、自己の立ち位置が変わります。立ち位置が変われば「ああ、そうだったのか」と納得します。立ち位置が変われば、周りも、自分も見えてきます。

「南無阿弥陀仏」の鏡をもって生きるのです。

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