飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年4月22日

岩佐 幾代 (淨永寺坊守)

第67話 「死」からの問いかけ

全て生ある者は、必ず死に帰するのが世の習いです。死は、繋がりが深ければ深いほど、悲しく辛いものです。

このコロナ禍の中で、悲しみを共に共有できない事は、寂しい事です。家族だけで、身内だけでお葬式をするのが流行しています。が、本当にそれで良いのでしょうか。迷惑をかけないと言いますが、迷惑をかける、かけないという問題ではないと思います。質素で良い、多くの人々と、亡き人を偲びつつ尊って送る葬儀もあると思います。葬儀をして「ハイ、終わり」だったら「ゴミ」を消却したのと同じ意味になります。死は決して個人的な事ではありません。公なる事なのです。

私たちは、私たちに与えられた「為すべきことを全て為し終えて」寿命が尽きるのです。ですから、全ての人が、自分に与えられ人生を完成するのです。たとえ、生まれて直に亡くなったとしても、此世で与えられた仕事を終えて寿命(いのち)が尽きるのです。

大切なのは、その後の私の姿勢です。亡き方と、どう出遇うかです。それは、悲しみが深ければ深いほど、苦しみが深ければ深いほど、私に人間の深さと豊かさを与えてくれます。

私事になりますが、私は高校2年生の時、兄を亡くしました。その後数年、私は辛く悲しく、世を厭い憂いました。そして罪悪感に縛られました。出口の無い苦しみが、人間であることを問わしめたのです。

人間であることの悲しみを共に悲しんでいる阿弥陀仏のお姿に、私は救われました。自分中心で、利養できるものは何でも利養し、都合の悪いことは切り捨て忘れる。そんな私だからこそ、阿弥陀仏の智慧と慈悲が必要なのです。人間であることの悲しみ、その悲しみと共にあるのが「南無阿弥陀仏」なのです。この身のまま、寿命(いのち)を全うする生命があるのです。

PAGE TOP