2022年4月8日
江馬 雅臣 (賢誓寺副住職)
第65話 幸せってなんだろう
私たちはどうしたら幸せになれるでしょうか。自分のことを愛してくれる人が現れたら、幸せになれる?恵まれた環境に身を置いたなら、幸せになれる?私は、いつも「幸せ」になる時を待ち焦がれています。しかし「幸せ」は求めても得られるものではなく、人から与えられるものでもなく、ましてや「棚からぼた餅が落ちてくる」ようなものでもないようです。
現実、私の生活は準備と段取りに追われる日々であり、心も時間や場所とともに刻々と変化するため「幸せ」を実感するどころか、「なんで私だけ」と愚痴ばかりです。そのような姿を仏教では「迷いの身」として、真実を見失っている姿として教えています。
では、仏教は「迷いの身」を生きる私に「幸せ」ということをどのように教えているのでしょうか。
あるお寺の本堂に「幸せだから感謝するのではなく、感謝できることが幸せなのです」という言葉が掲示されていました。前者は、私が都合よく「幸せ」を受け止めて喜ぶ姿です。日頃の私も自分の思いや、願いがかなうたびに喜んでいます。しかし、その喜びもつかの間であり持続することが出来ません。後者での「感謝」の受け止めは前者と違い、私を生かしめている事実に気づくことが「幸せ」だと伝えています。私は人との関係においても、家庭や職場や地域の人に励まされ、支えられているわけですし、多くのいのちをいただいて生きているわけです。ですから仏教は、私を生かしている真実のはたらきに気づき、迷惑をかけて生きている存在だということに深く「うなずく」ことが「感謝」であり「ほんとうの幸せ」なのだと教えています。仏教の教えは、あなたが今ここに存在している事実を知りなさいと問いかけています。
その教えが身に響く時、「退屈な日常」が「大切な日常」へと変わり、些細な出来事でも「幸せ」として受け止めていく歩みがはじまるのだと思います。