飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年3月11日

三島 多聞 (高山別院輪番)

第62話 命日・明日・迷日

「命日」とは、故人の亡くなった期日をあらわします。命日と誕生日は「いのち」を意識する2大ポイントです。大事な記念日なのに、不思議とこの2つの日を当人は知りません。初めは気がついたら生まれていたし、最後は気がついたら死んでいた、ということになります。はっきりしていることは「いのち」は私の思いを超えているということです。だから生と死に迷うという現実が生じてくるのでしょう。この根本的な迷いを解く鍵が、大切な人の「命日」にあります。

 阪神淡路大震災で多くの方々が、倒壊の家の下、加えて火が走った中で亡くなりました。9年後、19歳の青年(10歳で地震に遭っている)が、被災地の神戸市長田区へ毎年1月17日にお参りにきていて、新聞記者のインタビューに、〝僕は頑張る。いのち大切にする〟と答えました。大切な人の「命日」に、自分を大切に生きるという「誕生」の意味を学んでいます。すなわち、自分を大切に生きると気づいた日が、自分の「誕生日」となっています。

 蓮如上人は、親鸞聖人の御命日を「明日」と書き、「メイニチ」とルビを打って読ませています。親鸞聖人が生涯をかけて明らかにした本願念仏の教えは、自分にとって人生を明らかにしてくれる「日」だ、というのが命日を明日と書いた理由でした。故人の命日は、私のいのちを呼び覚ます「明日」であり、〝故人の死(命日)は私が生きることを学ぶ大地である〟と。

 明るく生きる縁となる「死」を、縁起でもないと塩をまき、期日が悪いと日を選ぶのは、命日が直ちに「迷日」の始まりの日となります。〝めいにち〟と発音は同じです。中味は天地の差。

 自分の「命日」は、私が「明日」として生きた完結日となります。

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