2022年3月4日
旭野 康裕 (永養寺住職)
第61話 『ゼロコロナ』を目指す背後に潜むもの
コロナ禍の憂鬱な気分の内に今年も2月を迎えました。昨年秋頃の楽観的なムードは砕かれ、命は最優先でも経済活動も大事、という間で揺れる価値感覚を警告するかのように、ウィルスは変異して感染を拡げています。大国中心の社会構造、文明国を自負する人々の勝手な価値観。今世界中が苦しんでいるパンデミックは、その偏った社会構造や価値観の変革を促しているように感じます。
ウィルスを国から完全に排除して『ゼロコロナ』実現を目指している対照的な二つの国があります。一つは大国中国、冬季五輪を控え威信をかけたウィルス封じ込めに必死です。平和の祭典のためと、人権を後回しにする強権的手段には眉をひそめたくなります。もう一つはコロナ感染者が累積1人のポリネシアの島国トンガ。先月海底火山爆発と津波被害に遭いました。外部からのウィルス侵入で国家存亡危機の過去を経験し、現在強力なコロナ対策を続けています。脆弱な経済や医療、苦難の歴史を理解した国際的支援が行われています。
日本の感染症対策の歴史にも恥ずべき経験があります。かつてハンセン病は、誤った国の政策により恐ろしい感染症とされました。各自治体はハンセン病ゼロを競い合って、官民一体の『無らい県運動』を戦前戦後に二度展開しました。感染者を見つけ出し一人残らず療養所に隔離しようとしたのです。密告が奨励されて患者はあぶり出され、家族の家は真っ白に消毒されました。患者を社会に迷惑をかける存在として地域から排除し社会の片隅に閉じ込めて、患者でない側だけの安心安全な社会実現を目指したこの運動は、私たち市民が主体でした。一人ひとりの自己中心の都合が運動の背景にはあったのです。コロナ禍の今も、感染者をどこの誰かと特定し、行動をも暴き、SNSで情報を共有・拡散し同調者を募ります。そして家族、職場、地域にまで冷たい目線を向けてしまう私たちなのです。
コロナ禍が警告するのは、私たち人間の愚かで弱い姿と、社会の濁った相(すがた)なのでしょう。