2022年3月1日
小原 正寛 (専念寺)
第60話 雑草という名の草はない
「お父さんこれ知っとる?」 と上の子が保育園で教えてもらったこと、聞いたことを嬉しそうに話してくる。
「何?」 と聞き返すと沢山のことを教えてくれる。 しかし「へぇー、そうなんだ」と、ついつい相づちで誤魔化してしまう。
そんなある日、
「お父さんこの草の名前しってる?」
「いや、お父さんこの草の名前しらないなぁ」
「この草はカラスノエンドウって言うんだよ、食べれるんだよ」
「じゃあこの花は?」
「えー、なんだろう」
「これはねムラサキツメクサっていうんだよ」
と色々教えてくれる子どもの話しを聞いているうちに、自分もいつも子どもとみている風景、見たことのある草、花のはずなのに私にはそこら辺で生えている雑草にしか見えない植物。 しかし、子どもにとっては雑草というくくりではなく一つ一つ違う植物で違ういのち。この違いは何だろうと考えさせられました。その時、ふと前に見た掲示板の言葉が思い出されました。
「雑草という名の草はない」どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。 どんな植物、生き物にも名前がありいのちがあり精一杯に生きている、少なくとも雑には生きていない、それを雑草と考えているのは私自身がいのちを雑に生きているから。
仏様の教えには「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」〔青き色には青き光、黄なる色には黄なる光、赤き色には赤き光、白き色には白き光あり。〕どんないのちもそれぞれの色を持ち、光り輝いていることを語っています。それは、私たちが生きる喜びの姿でもあります。
どんな時代にあってもそれぞれの色を光り輝く世界が私たちの生きる喜びの世界でしょう。
今、社会が求められている多様化とは特別なことを求められているのではなく、ついつい雑にみているそれぞれを一つ一つずつみていくことではないでしょうか。