2022年2月18日
江馬 雅人 (賢誓寺住職)
第58話 仏法が聞こえてくる
ご門徒の女性から一通の手紙が届いた。
「先日、お寺で詩が目にとまった。
あのときの苦しみも、あのときのあの悲しみも、みんな肥料(こやし)になったのだなぁ。自分が自分になるための みつを
この詩を読んだ時、ああそうなのだ、まるで私のためにある詩のような気がしてきた。高校三年生の時、健康だけがとりえだった私が、不治の病になった。なぜ私がこんな病になったのかと癌を恨み、自分自身を受け止めることも出来ず悩み・苦しみ・悲しむ毎日でした。しかし、仏縁を頂き聞法の生活を重ねるうちに、病も「お与え」であり、私が生かされている事実を教えてくれているのだと受け止めるようになりました。また、癌になったからこそ、思いどおりにすることができない「いのち」の事実を知り、そのことによっていつも愚痴をこぼさずにはいられない私なのだということも仏法から教えてもらっています。だから悲しみや、苦しみは無駄ではなく、わが身を知る肥料になっているのだと思います。」
という内容でした。
この女性は、「蒔かぬ種は生えぬ」のことわざがあるように、真宗門徒の家に生を受け、幼少の頃から祖父母に連れられて聞法の場へ身を運んでいました。
本願寺八代目『蓮如上人御一代記聞書』には
「聖教をすき、こしらえもちたるひとの子孫には、仏法者、いでくるなり。ひとたび、仏法をたしなみそうろうひとは、大様になれども、おどろきやすきなり」(仏様の教えを聞くことを大切にしている人の子や孫には、仏法を生きる拠り処にする人が誕生します。また、一度でも仏法を聞いて自身の事実にうなずいた人は、生活に追われて忘れていてもハッと気づき、人生の一大事を思い起すことがあるのです)
という言葉があります。
仏法を聞くとは、思いどおりにすることが出来ない「いのち」を知り、また我が身のあり様にうなずいていくことが要であります。この女性は現在もお寺やひだご坊など聞法の場に身を運びながら、常に愚痴をいい、不安や悲しみを抱いている私であることが聞こえてくるとおっしゃいます。私が都合よく聴くのではなく、仏法が聞こえてくるところに本願のはたらきが信心として届くのだと思います。