飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2022年1月7日

三島 清圓 (西念寺住職)

第52話 ごぼうさま

明け六つの\鐘がご坊ゆ\わが町の\家々に鳴る\わが家にも鳴る

明治の飛騨が生んだ法学者、牧野栄一氏の歌である。「鐘がご坊ゆ」とは「鐘がご坊と言っている」という意味でご坊とは現在の高山別院である。当時、別院の裏座敷から田んぼの中にポツリと立つ国分寺が一望できたという。

高山線が開通したのは昭和9年で、それまでの国府~高山間は歩くしかなかった。国府町広瀬町の故岡村文子さんは「朝5時に広瀬を出発して、高山の親戚で用事をすませて家に帰ると夜の8時を回っていました」と娘時代を回顧する。その時代の国府の若衆の楽しみといえば、盆と正月に仲間と連れ立って高山の街に繰り出すことであったようだ。そんな折に国府の者同士が高山の通りでバッタリ顔を合わせると「おう、ごぼうさま参ったか?」が決まり文句であったと同じく広瀬町の中田富雄さんは親から聞いている。

金森長近の要請でご坊さまが白川郷の中野から現在の場所に移転したのがちょうど500年前である。織田信長の下で一向一揆の鎮圧に手を焼いた長近は、中野のご坊を白川の自然の要害の中に置いておくことに不安に感じ、城山から馬で駆け下れば一気に鎮圧することのできる現在の場所にご坊を移させた。『紙魚のやどり』という古書によれば、長近の高山城とご坊の本堂との間で建築競争が行われたことを伝えている。ご坊と比べて高山城の建設が遅々として進まないことに焦った長近は、その理由をご坊の13代住職明了に尋ねると「それは大工に酒を振る舞わんからや」と笑い話に茶を濁したという。

上からの命令で事を運ぼうとする政治権力と下から支えられた信仰心の差は歴然としている。ごぼう様を大切にする飛騨人の伝統は今に受け継がれているが、それを伝える文章を小鷹ふさ女史の『飛騨のかたりべ・ぬい女物語』から抜粋してこの稿を終える。

「 御坊様は何度も火事に合わしゃったげな。或る時、“御坊様が火事じゃ”というので、おらが旦那様なんぞ飛んで行ったまんま幾日も帰ってござらなんだ」(明治八年)

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