2022年1月1日
帰雲 真智 (還來寺住職)
第51話 「足音」に聞く
時には灯りのない
寂しい夜が来たって
この足音を聞いてる
誰かがきっといる
これは私の好きな歌手・ミスターチルドレンの楽曲「足音」の歌詞。苦難の人生において、時には灯りのない暗闇のような孤独や不安に襲われても、一歩一歩踏みしめ歩むその姿を、必ず誰かが見守ってくれている。そんなこの曲を聴いて、思い出すことがある。
私が大学生の時、交際していた女性のお母さんが自死された。悲しみに沈む彼女に慰めの言葉をかけてあげたいが何も浮かばない。父ならば何か気の利いた言葉を教えてくれるであろうと電話でたずねると、ただ一言。「一緒にいてやるだけでいいんでないか」。
「それだけかよ」。その時は物足りなさを感じたが、住職となった今では、その言葉の重さをズシリと感じる。深い悲しみを抱えた方を前にする時、私は相変わらず無力だ。でも、ただ隣にいるだけで力になることもあると父は伝えてくれたのだろう。そして、たとえ私が寄り添えなくとも、私の思いやはからいを超えた存在が隣にいるのだと。
キリスト教を信仰する作家の遠藤周作さんが、神とはどういう存在かと聞かれ、「何もしてくれない同伴者」と答えていた。神に祈っても苦しい事実は変わらず、悲しい心も無くならない。けれども、その苦しみや悲しみに寄り添う存在を確かにこの身に感じる。それが神であり同伴者だと。
釈尊は迷い苦しむ自身を救い取ろうとする願い(本願)をその身に感じ取り、「阿弥陀仏」と名づけられた。慈悲と智慧をもって寄り添い続ける願いとの出会いを「南無」と感動し、うなずかれた。釈尊の感動を仏教徒は「仏さまが見てござる」と子どもたちに伝えた。「見張る」存在でなく、「見守る」存在として。
その悲しみの足音を聞きもらさず、寄り添う存在がそこいる。「南無阿弥陀仏」の言葉となって。