飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2021年11月5日

三島 多聞 (高山別院輪番)

第44話 業ということ

「業」(ごう)という言葉は仏教用語です。日常よく使います。例えば「自業自得」です。

「業」という言葉は自覚して知る世界観ですから、使い方を間違うと大変なことになります。病人を見舞いに行って「自業自得だ」といえば怒られますよ。本人が病気の原因は自分にありと自覚し、自身の口からいうなら話は通ります。

他にも業に関する言葉がたくさんあります。宿業、悪業、善業、業縁などです。長い歴史のうちには誤解されたものもあります。宿業を運命論を思う人がいる。自覚された宿業は現実を受けて立つ力のことなんです。「地に倒れし者は地によりて立つ」、これが「宿業の自覚」です。

 先ず基本をいいますので、そこから業を考えてみてください。

「業」とは行為のことです。身業とは身体的行為、口業とは言語的行為、意業とは意思的行為です。これを身口意の三業といいます。釈尊は「生まれによって人となるのでなく、行為(業)によって人となる」と教えられました。地獄も餓鬼も畜生もあるものでなく各人が作る世界です。人格を作るのも我々の業(行為)次第。

「職業」という言葉があります。職種はたくさんあります。その職に関わる人(業)によってどうにでもなる。あの寿司店はうまいまずいはどこからくるのか。業(わざ)を持った人によって決まってくる。でも世の中そう簡単でありません。病気になったり、火事になったり、コロナで客が来なかったり。つまるところ、どう生きるかの問題となってきます。別院本堂内に、「これからが これまでを決める」という法語掲示がありました。

運命は誰にも分りません。ただはっきりしているのは現実です。この現実を愚痴るか受けて立つかは、そもそも今まで作ってきた自分(業)が決める。

中村久子さんの言葉、「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない。」

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