2021年10月15日
三島 大遵 (真蓮寺住職)
第42話 安心して迷える道
数年前、国府にあったアピタのおもちゃ売り場にて、まだ保育園児だった息子を連れて誕生日プレゼントを選んでいた時のこと。ふと目を離した隙にはぐれてしまった。息子の名を呼びながら、陳列棚の並ぶ通路を順に探すのだが見当たらない。時間が経ち焦り始めたころ、館内放送が鳴った。
「〇〇くんのお父さん、〇〇くんが探しています。案内所へお越しください」
安心すると同時に、息子は自分が迷子であることを人に伝えることができたのかと思って感心した。
私も道に迷うことがある。知らない土地であれば地図は必須。道しるべが無ければ進むことができない。ただ、地図があれば目的地に着けるのかといえばそうではない。今自分がどこにいるのか、その現在地が分からなければ地図を読み解くことはできない。自分は今どこにいて、どこに向かっているのか。そしてその目的地へはどのように行けばいいのか。
人生に迷った時も同じ。私は何のために生まれ、どこに向かって生きているのか。そして、どう人生を歩むのか。
「道に迷ったらたちどまって、道を知っている人に尋ねるのが一番」(鈴木章子)という言葉がある。人生の迷子にならないために、私の現在地を知らせ、進むべき道を照らす教えを持つことは大切である。いつでも教えに帰って道を尋ねることができる。安心して迷える道、間違えてもいい人生の道を歩めることは心強いことである。
厄介なのは、人は道に迷っているのに、迷ったことに気が付いていないことだ。それでは迷いは深まるばかり。道に迷うどころか、自分自身を見失う。人は道に迷うもの。間違えもする。私も人も、そういう存在であるという地平で、共に出遇い、許し、助け合い、生きていきたいものである。
アピタで無事に息子と再会。しかし、その十分後に、再度同じ放送を聞くことになる。
「何をしているんだ」と大笑いしたものの、幼き子の手を離してはいけないと反省した。