2021年9月20日
内記 洸 (徃還寺副住職)
第38話 辛くたって、悔いがない
友人のおばあちゃんが、私のちょうど目の前で亡くなっていかれました。
友人は東京で、立ち会えませんでした。「タケちゃんが居てくれてよかった。」
通夜の晩に、そう言ってくれました。けれど、思い返すたびこう思って、悲しくなります。
「本当なら、そこに居るべきは私ではなく、友人だったのだ」と。
災害、飢饉、疫病、戦争…。中世という時代には、辛く悲しいことが今よりずっとあったはずです。
が、親鸞という人が自分のこととして語った出来事は、たった二つ。
一つは、国による念仏弾圧が起きたとき、師とともに無実の罪に連座したこと。
僧侶四人が斬首、親鸞は師・法然とともに流罪となります。
二つに、師から、その著書『選択本願念仏集』の書写を許されたこと。
自分のことを語らない親鸞が、これら二つについては「悲喜の涙を抑えて」その由来を記すのだ、と。
この「痛み」と「喜び」が、親鸞という人の原点です。ここから、生涯をかけた思索と歩みが始まった、ということです。
私たちはどうでしょう。「一生を尽くして悔いがない。」胸を張ってそう言えるものがあるでしょうか。
お義母さんの五十回忌に来られた、とある奥さんのお話。
50年前、お義母さんのご遺体を前に親類一同、順にその体を拭いていったそうです。
自分の番が回ってきたとき、「私はいいです。」そう断ると、布を渡そうとした人が、強い口調で言いました。
「ダメや。これは家族みんなですることや。お前もやらんならん。」
自分にできるかどうか、自分が相応しいかどうか、ではない。目の前のその現実を、どう受け止めていくのか。
誰にも代わってもらえない、「私一人」が尽くしていくべき責任。その「重み」は、
誰にとっても平等です。
辛いことがなくなる、なんてウソ。動じなくなる、なんて勘違い。人生は「不都合」でいっぱいです。
けれど、とても担えないと思える重荷も、その意味が転じられると私たちの歩みを押し出す「力」となる。
浅薄で上滑りした時代を踏みしめていく、確かな力に。