飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2021年8月23日

岩佐 幾代 (淨永寺)

第34話 『共なるいのち』を生きる。

今、世界はコロナ禍の中で、人との出遇いが制限され、マスクが顔を覆い隠しています。

顔の表情で、私達は感情をよみ取り、関係を結んできました。

それが今、全部奪われているのですから、これは、大変な事が発っているのです。

 でも、今に始まったことではありません。

日本の歴史を繙くと、私達は、何回となく疫病と遭遇し、

そして免疫をつけ、今日まで生命を保ってきているのです。

 日本での最始の疫病の大流行は、聖武天皇の頃であったと言われています。

市中では、人々が次から次と亡くなり、不安と動揺が渦巻く中で、

人々の安穩と平和、生きる力を願って建立されたのが奈良の大仏だと言われています。

 仏を拝む事で、安穩と生き抜く力を護ることができたのです。

仏を拝むということは、仏の教えを聞くということです。

 私達は、自分に都合の悪い事、或いは、意図しない事が発ると、

その原因を外に求め、恨み怨み、批判し、時に攻撃的になります。

或いは、八方塞がり、だと言って閉じ込り、自暴自棄になり、方向を見失い、

時には、自らの生命を落とすこともします。

 しかし、いかなる状況の中にあっても、光があり、出口があることを知らせんが為に、

仏は起っていられるのです。何故なら、世間では八方塞がりと言ってますが、

仏の教えは、十方世界なのです。全て塞がっているのではないのです。

後、二方開いているのです。

 このコロナ禍の中で、家に「閉じ込る」のではなく「籠る」のです。

静かに、自分と向き合うのです。私達は、平凡な群萌ですから、

自らの力で以って「籠る」ような事はできません。

しかし今の状況が私を籠らせ、人生を見つめ治す。よき時が与えられたのです。

「閉じ込る」のではなく「籠る」のです。

 そうして、「後二方向有ります」という仏の喚び声を聞くのです。

すると前が開かれるのです。私の思いは生命より、大きく、広く、深い

願いの「いのち」に気付かされます

。一人ではない「いのちの鼓動」を聞くのです。

 久遠劫より連綿としてある生命の大きさを知り、生命の豊かさを知らされます。

 私の「いのち」も、貴方の「いのち」公なる「朋なるいのち」なのです。

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