2021年7月19日
旭野康裕 (益田組永養寺)
第29話 私の我慢が他(ひと)を許せなくなるとき
新型ウィルス出現で始まった日常の変化は、今や当たり前の日常になるほど、コロナ禍は長引いています。
そして我慢を強いられ続ける生活で、全国から「もう限界」という叫びが上がっています。
たび重なる緊急事態宣言やまん延防止措置、後手になる対策、不平等感をぬぐえない経済対策、
五輪開催に前のめりな姿勢、他国と比べ遅れるワクチン接種…。
私達の不満は募り、政府への不信感は増すばかりです。
コロナ禍で社会に不安が拡がり、当たり前だった自由が制限された窮屈な生活を強いられると、私達は『近所の目』や『世間の評判』をより強く意識して暮らすようです。『不要不急』と自分に我慢を納得させ努力する私となります。そして我慢し努力する私は、我慢できない人を非難し冷たい目線で見て許しません。
コロナ感染者やその家族などを誹謗中傷する差別的な問題が拡がっています。
ワクチン接種が進めば、何らかの事情で接種しない人への差別も懸念されます。
私に感染させる可能性の全ては、世間に迷惑をかける存在になり、許せなくなります。
病気(感染症)でなく人(感染者)が悪となり、それを懲らしめるのが正義のようになります。
そして私が感染したら、今度は私が迷惑な存在になり、世間の正義から差別の標的になってしまうと恐れるのです。
感染者への私の目線も、感染した私への世間からの目線も、どちらも私にある目線なのです。
そんな私は感染しないように一層の我慢と努力をすれば、我慢も努力もしない人を益々許せなくなります。
『我慢』は仏教由来の言葉で煩悩の一つです。
『広辞苑』には「自分をえらいと思い、他を軽んずること、高慢」と出ています。
私の我慢や努力は正義となり、『私さえ』と自分中心の考えで我慢しない他(ひと)を軽蔑し誹り差別することを正当化します。
自分の愚かな姿に気づけず、反省することも恥じることもありません。
人間は相手の身になって共感し、相手を尊重し支え合う勇気があります。
寛容と協調という美しさもあります。その強さや美しさこそが、人間であることの証明なのでしょう。