2021年7月5日
三島多聞 (高山別院輪番)
第27話 食べること生きがいみたい豚の母
この句はもう何十年も前に知ったある中学二年の女生徒の一句です。
人間、少し物ごころがつくと何でも興味を持ち質問します。小学生の子が先生に
「人間なんのために生まれてきたの?」と質問したそうです。
先生はなんと答えたでしょうか?
この質問は時代、民族、言語、文化が違っても、人間生まれた限り必ず持つ疑問です。
逆にいえば、何しに生まれてきたかを尋ねることが人間である証(しるし)であると言ってもいいでしょう。
そしていろいろの人の「生き方」を観察し学んでいく。中二にもなれば、
相当厳しい人間洞察力を持ってくるようになります。尊敬できる人を探すわけです。
最も身近にあるのは親です。母親を豚呼ばわりしてしまうほどの、
この一句は悲しいことです。子も親も人間尊重の関わりが必要です。
尊重は、どこに立って生きているのかというところに芽生えてきます。生き方の問題です。
「生き方を学んでいるつもりが、最初から死に方を学んでいたのだ」といったのは、レオナルドダヴィンチです。その場その場のあり方でなしに、
一本筋が通った心根が大切であることを知ります。
生き方がそのまま死に方になっています。
ゲーテは「死せよ成れよ。この一事を会得せざる限り、汝は暗き地上の旅人に過ぎず」。
こういわれると生き方に徹底が要求されてきます。
念仏でいえば『歎異抄』で「念仏もうすのみぞ、すえ通りたる大慈悲心にてそうろう」と
親鸞聖人はいっています。
題にあげた一句に対比して思うのは、中村久子さんの一句です。
尊さは母と呼ばれて生きとおし
両手両足のある普通のお母さんのように、充分な世話ができなかったけれど、
「お母さん、お母さん」と呼んでくれることの何と有難いことかと歌っています。
久子さんは一体どんな生き様を子に残したのでしょうか。