飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2021年6月21日

帰雲真智 (高山2組 還來寺住職)

第25話 「共にこれ凡夫」

ある方が「寺に住む者(寺族)はみんなの手本になってもらわんと困る」と言われた。

私に直接向けた言葉ではなかったが、「私たち寺族も人間です」思わずそう言いそうになった。

 聖徳太子は人間存在を「我必ず聖(ひじり)にあらず。

彼必ず愚かにあらず。共にこれ凡夫(ただひと)ならくのみ」と言い表された。

 親鸞さんはその凡夫を「煩悩具足の凡夫(ぼんぶ)」と、煩悩を不足なく具(そな)え、

迷い苦しむ自分の身の事実としてうなずかれた。

◇  ◇

以前にある奥さんが、「夫が重箱の隅をつつくように細かいことを言うので困る」と愚痴をこぼされた。

家に帰って早速坊守にそのことを話し、「俺は思っていても我慢して言わんから良かったな」と

冗談交じりに言うと、間髪入れず「私も同じやさ」の一言。

カチンときて「そんな返しはないやろ」と言うと「ありがとうって言えばよかった?」。

その一言で再びカチン!

カチンとくる根性も、カチンとさせる物言いも、煩悩のはたらき。

「自分の方が~」「自分ばっかり~」。今のところ大ごと(表沙汰?)になっていないだけで、

とても手本とは程遠い生活がわが家い(夫婦)の現実である。

◇  ◇

「波風の立たない家庭は理想であろう。しかし、凡夫の集合体である家庭であるが故に、

波風は立つものなのだ。ただ、波風が立ったところから、何を知らされ、

どんなわが身が見えてくるかが、信仰の大事な課題であろう」(松本梶丸)。

 凡夫だからしかたないと開き直るわけではない。凡夫だからこそ、そこにかけられた願いがある。

冒頭の言葉も寺族への批判や要望を超えて、

「有ること難き縁」で結ばれたその関係をどうか成就してほしいという、仏の願いの現われではないか。

 寺族・門徒「共にこれ凡夫」。迷い寄り添い合い生きていかまいか。

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