2021年5月31日
三島多聞 (高山別院輪番)
第22話 私の耳は 貝の殻 海のひびきを なつかしむ
この詩はフランスの詩人ジャン・コクトーの作です。私はこの詩が好きです。 時々口ずさみ海を「なつかしむ」のです。
「耳の形」は「貝の殻」に似ている。貝殻はまるで耳の形を見ているようです。 私たちの「いのちの先祖」は海から出てきた物的証拠のようです。 それを裏付けるかのように、海が波となって浜に打ち寄せる「ひびき」をなつかしむ。 そしてそのひびきは私たちを落ち着かせ、いつの間にか自分を振り返る時をもたらします。
海が波となって、幾度も幾度も、断えることなく浜に打ちては返す単純な 「ひびき」は、心の奥底にゆっくり届いて、遥か太古の「いのちの古里」を感覚させます。
打ち寄せる静かな波のひびきに耳を傾けていると、 何か大切なことを忘れて生きていることの申し訳なさを感じさせてくれる。
「生まれながらの願い」に気づかないと、いくら「生まれてからの願い」がかなったとしても、 むなしさが残り、真の満足はないと教えてくれた先生がいました。 太古からのいのちの本能として、「生まれながらの願い」を求める心が、 「海のひびき」によみがえるのだろう。いのちの営みのはかり知れない広さ、深さ、長さに、重さを感じる。 そのこと自体がいのちの大満足のただ中です。本当の満足は純粋で単純なのです。
弥陀の本願のことを、親鸞聖人は「海」に譬えています。 ズバリ「本願海」。されば譬えられた「海」から「本願」をおしはかってもいいのでしょう。 「本願が念仏となってひびく」のは、海が波となってひびく原理と同じです。
波のひびきが私を呼び醒ますように、念仏のひびきが私を呼び覚ます。 純粋で単純なひびきは、水、石を穿つがごとく心底に到り届きます。
時に荒波になるときがあります。この海鳴は私へのゆさぶりです。