2021年5月17日
内記 浄 (高山2組 徃還寺住職)
第20話 奇跡や!
ラジオでこんな話を聞きました。小学校5年生の子とお母さんの会話でした。
子:「僕のお父さんお母さんは2人で、おじいちゃんとおばあちゃんは4人だね」
母:「そうね、じゃあ、おじいちゃんとおばあちゃんのお父さんお母さんは何人になる?」
子:「うーんと8人か? たくさんいるんだね」
母:「じゃあ、もう一つ上のお父さんお母さんは16人でしょ。
そして、その上、その上、とずっといくとどうなるかわかる?」
子:「ぜんぜんわからないよ・・・・」
母:「それはね、30代さかのぼると、10億人を越えるんだよ」
子:「えっ! そんなにたくさんの人がいたんだ。じゃあ僕は奇跡だ!」
わたし一人が、今ここに生きていることは、これだけの、いやそれも超えて、
それこそ数えることも不可能な無量無数のいのちのつながりの最先端にいることなのでした。
そして、その一人ひとりに人生があって、その終着点として「わたし」が今の私として生きています。
しかも、その一人ひとりは、今の私と同様に、
食べ物として無数のいのちをもらってしか生きることは出来ませんでした。
「ぼくは奇跡や!」と叫んだ声は、その不思議としか言いようのない「我が身」の事実を知った感動でしょうか。
しかし、「自分がいま生きていることは当たり前」、「今だけ、金だけ、自分だけ」、
そのために「どうすれば上手くいくのか」に血眼になっているのが現代日本人の相(すがた)だといわれています。
自分を忘れているとはこの感動を失っている自分の事でした。毎日「初事、はつごと」の人生を今日も生きながら。