飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2026年1月15日

夏野 晃遵 (滿成寺住職)

第186話 自力と他力~南無阿弥陀仏を聴聞する~

「お寺は何のためにあるのか」という問いに対して、私自身の歩みを通してお話ししたいと思います。私はこれまで、釈尊が亡くなられてから約五百年後に編集されたといわれる初期仏教の経典を学び、修行や実践によって覚りを目指す教えに触れてきました。去年の5月に住職となり、真宗の教えを学ぶなかで、これまで学んできた仏教は「自力」、真宗の教えは「他力」と対比して語られることを知りました。

 真宗でいう自力の心とは、阿弥陀仏の本願を疑う心を指します。阿弥陀仏は、欲や怒り、ねたみの心が亡くなるまで止まらない私たちを、「必ず救いますよ」とお約束されました。この本願を聞いて、「本当だろうか」と疑う心が、自力なのです。

 この疑う心は、日々の生活では「これは良い」「これは悪い」と物事を分けて考える分別の心としてあらわれます。私たちは、どれほど丁寧に言葉を尽くされても、自分の都合や枠組みを通して理解しようとしてしまいます。そのため、分別を超えた智慧は、そのままでは受け取ることができません。このような自力の心を振り返らないまま、南無阿弥陀仏と称えている私の姿があります。その私に対して、分別で生きているのは自分であったと気づかせてくれる言葉が、南無阿弥陀仏なのだと思います。

 自分の枠組みを出発点にするかぎり、仏教の教えは理解したつもりになって終わってしまいます。仏教の用語を知り、儀式を覚え、お経をとなえることができても、それだけでは十分とは言えません。分別を超えた智慧が問題とされていることに、立ち止まって気づく必要があります。南無阿弥陀仏を聴聞するとは、分別の世界に生きる自力の私の姿を知らされることです。そこに立ったとき、はじめてお寺にお参りする意味が起こってくるのではないでしょうか。

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