2025年12月15日
中飯田 怜 (寳蓮寺衆徒)
第184話 人間として生きる
「人間」とは一体、どういう存在なのでしょうか?
私たちはこの世界(此岸)に生まれ、寿命を迎えると浄土の世界へ旅立っていきます。私たちは人間としてこの世に生を受けたからには、「人」として今の世の中をどのように生きていけば良いのでしょうか?
哲学者パスカルは「人間は考える葦である」と述べ、人間は「思考を巡らせながら他者と共に生きる存在である」と捉えられました。この世の中において、人間は一人では生きていけず、無数の見えない目に助けられ生かされています。考えて言葉を使い表現をし、相手とのコミュニケーションを図ることができるのは、人間のもって生まれた力です。そして、人間は言葉を駆使して生きています。言語があることにより私たちは様々なものを学び知識を得ることができ、その学びを文字にして現代まで伝えてきました。
その中で私たちは得た知識をどう生かしていけばいいのでしょうか?
また仏教徒としてどう生きていくべきなのでしょうか?
親鸞聖人は、『教行信証』において道綽禅師の言葉を引用して
「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え」と記しています。
この言葉は、私たちが先人の教えに導かれながら学び、その教えをまた後の世へと伝えていくということが大切だと教えてくれています。言葉や文字を使い先人が残してくれた学びを、更に自分で深め、積み重ねて「人間として生きる」という難題を考えていかなければなりません。
「人間」とは、曖昧な関係性の中で存在する生き物であるため、完璧な答えにたどり着くことは不可能に近いです。そこで私たちは常に自らをみつめ、自己を覚知し〝煩悩具足の凡夫〟であるという自覚を根底にもちながら日々を生きることが大切になってきます。生きるということは常に学びの中にあり、自分の考え・相手の考えを尊重し、共に聴聞していくことにより、新たな発見などがあるかもしれません。
その歩みの中でこそ、「人間とは何か?」「生きるとは何か?」という問いの答えが少しずつでも見えてくるのではないでしょうか?

