2025年11月1日
春國 立真 (玄興寺衆徒)
第181話 無宗教
先日、自坊にある女性が訪ねて来られました。
私は直接お会いしていませんが、坊守である母が応対したところ、
・自分は無宗教である。
・先日伴侶が亡くなり、火葬まで済ませており、葬儀や中陰参り等、宗教的な儀式は何もしていないがお墓は欲しい。
・無宗教で手次寺が無いが、お墓を建てるにはどうしたらよいか。
おおむねこのようなことを述べられたそうです。
結局、新しくお墓を建てられるのなら、お墓の事情に明るいであろう石屋さんに尋ねられた方がよいのではないか、と伝えたところ、納得していただき、お帰りになられたそうです。
この話を母から聞いた時、正直なところ、言葉で言い表しにくい不思議な感覚を覚えました。
というのも、最近は新しくお墓を建てるよりも墓じまいの方が多いとよく聞きますし、海洋散骨であったり樹木葬といった選択肢もある中で、無宗教であると自称されている方が、墓じまいならまだしも、新しくお墓を建てることを希望されるということが自分の中の理屈に合わなかったのです。
しかし日本人にはこの女性のような方は少なくないらしく、ある「宗教心」についての調査では全体のおよそ半分が「無宗教」かつ「宗教心は大切である」と回答しているそうです。
このような一見すると矛盾しているような感覚について、阿満利麿氏は著書の『日本人はなぜ無宗教なのか』において、宗教を「創唱(そうしょう)宗教」(教祖と教典、それに教団の三者によって成り立っている宗教)と「自然宗教」(いつ、だれによって始められたかも分からない、自然発生的な宗教)に区別することが、日本人の宗教心を理解する上で有効であると述べています。
つまり、そうした人々は仏教や神道、キリスト教といった「創唱宗教」は信仰しないけれど、「自然宗教」(=ご先祖を大切にする気持ちなど)の無自覚的な「信者」であるとしています。
「宗教離れ」「寺離れ」ということが言われている現代、手次寺にすらなかなか足が向かない人もいるであろう中で、手次寺ですらない寺を、「無宗教」を自認している方が訪ねてくださるというのは大変ありがたいことです。
門徒の方はもちろん、そうではないこの女性のような相談事ででも訪れやすい、そんな開けた場でなっているか、あり続けられるかということを考えずには居られない今日この頃です。

