2025年9月15日
白川 明子 (願生寺住職)
第178話 すぐにはわからないもの
夏に旬を迎える飛騨の桃。お盆参りにおうかがいした折、お内仏に桃をお供えされているご家庭も多く、度々みずみずしい香りと出会わせていただきました。いただいたものや季節の初物を最初に仏さまにお供えするという習慣を、多くのご家庭で大切にされているのでしょう。子供のころ、学校からの通知表を一番先にお内仏に持って行き、手を合わせた思い出がある方もいらっしゃるかと思います。
さて、それは誰から教えられましたか?おじいちゃんやおばあちゃん、または親御さんか、おそらくはご家族のどなたかでしょう。私も、事あるごとに「まずは仏さまやぞ」と親から繰り返し聞かされてきた一人です。時には「面倒だな」と思うこともあり、ほのかな反抗心で「なんで?」とたずねても、「そういうもんなんや」と。ずいぶん雑な教え方のようにも思いますが、おそらくそれで十分だったのだと思います。親や先人たちが大切にしてほしかったのは、そうしなければならない理由を知ることや納得することではなく、「まずは仏さま」という生活習慣、つまりはご本尊の前で手を合わせる習慣を身に付けることだったのだと。
世の中には、「すぐにわかるもの」と、「すぐにはわからないもの」の二種類がある。すぐにわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど、すぐにはわからないものは、(中略)何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しずつじわじわとわかりだし、「別もの」に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったことに気づく。(森下典子『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』)
ほんとうに大切なことは、すぐに理解できないものです。逆にいえば「すぐにはわからない」からこそ本物なのでしょう。仏さまの教えも、何年もかけて聞き続けて「少しずつじわじわ」と身に響いてくるものなのだと思います。
「学ぶ」の語源は「まねぶ」、つまり「真似をする」ことだと教えていただきました。お内仏に手を合わせること、朝夕のお勤めをすること、ナムアミダブツと称えること。先人から伝えられてきた大切なことや願いが、その「かたち」に込められているのです。理屈はさておき、まずは生活のその現場で(おうちの中で)その「かたち」を真似てみましょう。