飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2025年7月1日

北條 秀樹 (了泉寺住職)

第173話 お盆に向けて

 7月になりすっかり暑くなってきました。飛騨御坊のあるこの飛騨の地では、お盆には僧侶がご門徒さんの宅のお内仏に伺い、お家の方と一緒に「盆参り」を勤める風習があり、私たち僧侶は、この時期にはお盆の準備を始めます。ここ高山では、私もかつて寺に戻る前に他所で就職していた時もそうでしたが、普段は他所にお住まいで、お盆休みで帰省してこられて久しぶりに一家団らんされる方も多いでしょう。7月になると、そんなお盆休み帰省の計画を楽しみに立て始められる方も多いだろうと思います。また、ご家族で一緒にお墓参りに行かれる方も居られるでしょう。

 「お盆には、先に往かれた方が帰って来る」と言われたりもしますが、真宗ではそういった考え方はいたしません。では、真宗ではなぜお墓参りやお盆の法要を行うのでしょう?
 それは、お通夜の法話やお葬儀後の七日七日の参りで、私はよくお話しさせていることでもありますが、お盆のお参り、年忌法要、祥月命日、月忌参り、追弔会、さらに言えば、お葬儀も含め、全ての仏事は今この娑婆(しゃば)を生きる「私」が、亡き人を通して仏縁に逢い、私を確めせてもらうのが一番の意味です。極論すれば、主役は、その場で「南無阿弥陀仏」申している私です。
 そしてお墓参りとは、その亡き人と私との関係を、改めて確かめさせていただくものでしょう。 
 私のお預かりしている了泉寺には、ご門徒さんの共同墓があります。その墓石には「俱会一処(くえいっしょ)」という言葉が彫ってあります。これは、真宗のお墓にはよく彫られている言葉ですが、浄土三部経の一つである、仏説阿弥陀経の中に出てくる言葉です。私たちは、この娑婆では、皆ばらばらに生きているように感じていますが、お浄土では「供に一つ所で会う」と釈尊は説かれています。誰が会うのか?この「私」がいつかは一つ所で会うのです。

是非、お盆参りやお墓参りも「『私』が出会う」ご縁になればと思います。

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