2025年6月15日
長谷 顕信 (蓮光寺住職)
第172話 御香典をとおして考えたこと
ある日、仏壇店に蝋燭を買いに行った時、次のような話を店主から聞きました。会話の相手の息子さんは、最近父親を亡くされ葬儀を終えた方です。
(息子)「家族葬で葬儀したけど、思った以上にお参りの方が多くて、香典もたくさんいただいて、どうすればいいのだろう。」
(店主)「香典はあなたのものではないよ。お父さんが近所の葬儀に参られていた。だから、たとえ家族葬でつとめたとしても、近所の人が参られた。今度は、あなたが参られて、返す番ですよ。」
店主は息子さんに何を伝えたのでしょうか。一つは、息子さんは知らないかもしれませんが、生前中、父親は近所に参られていたことです。二つ目は、今はお父さんに代わって、息子さんが近所に参る役割を担うことになったことです。すなわち、大きな視野に立てば、参り合いの歴史を伝えられたのです。
私たちの先輩方は、葬儀や法要にお互いに参り合うことで、聴聞の機会を得てきたのです。けれど今、この「参り合い」が少なくなることで、聴聞の機会も少なくなっています。私自身、このことに大きな危機感を抱いています。
どうすれば、参り合いの精神が継承されるのでしょうか。
「参り合い」の関係から見ると、御香典は個人の自由に使えるお金ではありません。法要や葬儀などの聴聞の場に参るための手助けとして、御香典はいわば直接的には親類縁者や近所の方などから、また間接的には亡き人から、預かったものです。私たち一人ひとりが御香典から亡き人の願いやご苦労を聞き取り、足手を運ぶ者となっていくのです。
また信心も同じです。如来より賜りたる信心は、如来より預かったものであり、わが身の中に閉じ込めて私物化されるものではなく、常に表現されることを信心は求めています。その表現された形が「南無阿弥陀仏」です。
改めて今、足手を運び聴聞するという「参り合い」、そして信心を表現していく「南無阿弥陀仏」が、一人ひとりに求められています。
合掌