2025年4月15日
内記 洸 (徃還寺副住職)
第168話 「あんたがた どこさ」
親鸞って、どんな人? 自坊の月々の「定例」で、その生涯をたどった『御絵伝』を見ている。言わば、親鸞版「大河ドラマ」、「朝ドラ」だ。前回は、お師匠(法然さん)のもとで、親鸞と他のお弟子さんたち(先輩方)がもめた、という場面。最後に「どんなこと感じました?」、「気になることは?」と訊くと、ある方が驚いた顔で、次のように。
「親鸞聖人の言う『往生』って、私らの言ってる意味と、全然違うんやな。」
他のお弟子さんが言うように、普通は「往生」って、「死ぬ」とか「あっちの世界に行く」という意味だ。それと全然違うな、というのは、つまり親鸞という人にとって、「死ぬかどうか」が問題になっとらんじゃないか、ということ。その方もビックリ顔だったが、聞いて私もビックリ。これは、「私たちは、仏さまの教えをどう『いただける』のか」という問題。とても大事な「信心」という問題。
「自分は、やってない」。ある死刑囚は、執行の直前、最後にこう言ったそうだ。昨年上映された映画、『正義の行方』は、2008年に死刑が執行された、いわばもう「終わったはず」の事件(飯塚事件)を追跡したドキュメンタリーだ。冤罪を信じて今なお再審請求を行う「弁護団」に、一貫して有罪を確信してきた「警察・検察」、そして事件の報道の再検証を試みる「新聞社」、という三つの立場があるが、中でも目を引くのは三番目の「西日本新聞」だ。「彼は本当に犯人だったのか。」「実は冤罪だったのでは…。」その問いを、事件の第一線で報道してきた、当の記者自身が行っているのだ。自らの身を切ってまでなされる自己検証の試み。そこまで徹底的に、問われねばならないものがあるのだ。
毎年、高山に来ていただいている、横浜の海さんの『歎異抄』講座(高山二組主催)。昨年のテーマは、「現実が、なかなか受け止められない私たち」。何をやっても「自分」が立つ。他人のことはいろいろ言えても、自分のことになると途端に守りに入る。「南無阿弥陀仏の教えには、悲しみがある。真っ直ぐ教えを受け取れない、私たちへの『大悲』の教えですね」とおっしゃった。自坊の同朋会研修で、大垣の龍さんも大きい声で、同じことを。「貪欲、瞋恚、愚痴…。ヒトのことやないよ! 自分のことでしょ⁉」
先の映画の最後、記者は「真実が知りたい」と言った。真実は「コチラ」を問う。