飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2025年4月1日

井野 了慧 (高山教務支所書記)

第167話 南無阿弥陀仏の大船

 船が好きである。

 まあ、乗り物全般クルマも鉄道も飛行機も好きではあるのだが、ことに船となると軍艦から小船に至るまでなんでも好ましい。悠然どっしりとかまえた客船やフェリー、荒波を突き破り進む護衛艦、瀬戸内の海面を矢のように滑りゆく高速艇、沖合をポンポンいいながら遊弋する漁船、そういう光景を眺めているのもいいものだが、やはり何といっても自分が乗り込むのが一番である。春めいてきたこれからの季節、富山まで出かけて行って、お天気のいい日にふかりふかりと停泊する海王丸の甲板で潮風に吹かれるのはたまらなく心地よい。

 海は美しく、豊かな恵みを与えてくれるが、また同時に何物をも飲み込む底知れぬ恐ろしさを秘めてもいる。晩の海岸やフェリーで果てしなく暗く広がる海になんとも言えない不安を感じたことがある人もいるだろう。人間がひとたびその只中に放り出されれば数日とは生きておれない。また、町を襲う津波の映像の衝撃はいまだ記憶になまなましい。そうした海の恐ろしさを知っているからこそ、悠然とその上に浮かび、われわれをしっかりと載せてゆく船は頼もしいのである。

 親鸞聖人の著書には「船」や「海」にまつわることばが非常によく出てくる。おそらくは流罪になった際に越後まで船で運ばれているだろうし、のちに20年過ごされた常陸もまた古来利根川や霞ヶ浦の水運が盛んだった地である。親鸞聖人もまた、船の味わいというものをよく知っておられたことだろうと思う。

 海は「功徳の大宝海」にたとえられるように、功徳に充ち溢れる世界を表現したり、誰をも受け入れる懐の深さの表現にも用いられるが、同時に「難度海」「生死の海」と、この波乱に満ちた苦悩の人生を表現するときもある。

 つかまるものとてなく、陸地も見えない人生という海原のただ中で浮きつ沈みつ必死にもがき続けて、しかもその自覚がないのが私たちである。南無阿弥陀仏の大船は「海の中でもがき続けている」という私たちの事実を自己発見させ、浄土に憧れ仏と成っていくという航路を示してくれる。そしてこの人生をまるごと載せ、現在を生きる寄る辺となるのである。

  生死の苦海ほとりなし
   ひさしくしずめるわれらをば
   弥陀弘誓のふねのみぞ
   のせてかならずわたしける(「高僧和讃」)

 人生、夜の海のように暗く持っていき場のない不安に押しつぶされそうなときもある。舷側が破れそうな凄まじい荒波に翻弄されるときもある。しかしながらこの頼もしい「大船」は決して沈んだり転覆することなく、仏と成るという航路を常に示し、私たちの人生の根本的な立ち位置となるのである。

 さぁ、船の運航にあたっては点検が必要である。
 といっても南無阿弥陀仏の船に点検するポイントはない。本願によって建造された船は船体も機関も羅針盤も完璧である。無量寿なのだから耐用年数も無い。
 むしろ、乗客たる私たち自身を点検せねばならないのである。

あなたはちゃんと船に乗り込めているか?
船と船長を信頼しているか?
わざわざ不要のオールを出そうとしてないか?

まずはそこからやぜ。

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