2025年3月15日
北條 秀樹 (了泉寺住職)
第166話 暗くない話
2025年は1月中には雪も少なく楽な冬でしたが、2月に入ってから各地で豪雪になり、雪害報道も相次ぎました。豪雪地域にお住いの皆さまは、この冬は本当にご苦労様です。
ここ高山別院のある高山市街地も積雪地帯です。私も連日、自身のお寺の境内の雪かきに追われました。この時期の空は概ねいつも曇り空。幸いな事にこの冬には一晩で50㎝、1m積もるということはありませんでしたが、前日に頑張って雪かきをしても、また翌朝には一面の曇り空の下、15㎝、20㎝の雪に覆われており、また雪かき。
それでも、たまに日中に晴れ予報があるときには、地面を出しておくと驚くほどに雪が溶けるので、せっせと雪かきをして地面を出します。今年の2月はそんな毎日の繰返しでした。
この時期、どんよりとした雲の切れ間からの晴れ間を見つけたとき、つくづく感じるのは、陽の光のありがたさです。特に、雪国に住む私たちは、この時期、陽の光を待ち望んでいる地域に住んでいるのかも知れません。
思えば、親鸞聖人も35歳で越後国(現在の新潟県上越市国府)への流刑に遭われました。冬の日本海、親鸞聖人もこの時期、連日の曇天の下で過ごされた事でしょう。
親鸞聖人は正信偈に「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(ひにょにっこうふうんむ うんむしげみょうむあん)「たとえ、日光が雲霧に覆われていても、雲霧の下、明らかにして闇ではない」と、阿弥陀仏の大慈悲心を日の光に例えておられます。
真っ暗な夜、無明の闇の中では、雲がある事さえ私たちには判りません。夜が明けて、空は一面の曇に覆われていても、実は無明の闇ではない。光が届いているからこそ、また自分を覆っている雲があることを私たちは知ることができるわけです。
「有り難いなぁ」と私達が実感している、いないに関わらず、大悲の光はたえず私たちを照らしている。親鸞聖人はそう言われているのです。