飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2025年2月15日

杉野 明真 (照蓮寺住職)

第164話 出会いに感謝

 生まれてから多くの出来事や人との出会いがありました。

 両親、兄弟との出会い、生まれてから現在まで、お寺の仕事ばかりでなく、色々な仕事をする中、多くの人との出会いがありました。良いことも悪いことも現在、生活の中で生かされております。

 別院に勤める事になり現在に至ってます。お世話になっているということは何かがあるからいるのだと思います。

 別院というところはお寺さん、門徒さん、色々な人が出入りしますから色々な方から多くの事が聞けます。人と接する事がこんなに楽しく、面白いという事がわかりました。私は今この出会いをありがたく思っております。  

 ある日、腹痛で動けなくなり緊急搬送、緊急入院、検査の結果大腸がんと診断され、癌の摘出手術をしました。

 入院中に、生まれてから今日までこの時ほど多くの人との出会いに感謝したことはありませんでした。親、兄弟、坊守(嫁)、娘、中でも特に嫁さんですね。出会うべくして出会って苦楽を共にしているのだと思いますが、居て当たり前、何かをしてもらって当たり前、そんな風になっていたところに発病、入院、手術ということになり、それまでは自分は生きているのが当たり前であると思っていましたが、一人で生きているのではなく、おおくの人に生かされているんだということを思い知らされ、気づかされ、実感しました。

 母、父との別れがありました。感謝の気持ちは有りつつもやはり当たり前の存在でしたが、亡くなって改めて大切な事を知らされた気がします。

 まだまだ感謝の気持ちが伝え切れてない、自分は生かされている事を再度気づかされ確認しました。私は、自分一人で生きている、なんて思っていたのですが、今日まで多くの方との出会いが有り、多くのことを気づかさせていただき現在この場に生かさせている事に感謝しています。

 念仏、南無阿弥陀仏は、人々に安心を与え、その安心の中で生きることが真の喜びとしているため、南無阿弥陀仏は他の信仰に何も関係なく称える者は救われる、南無阿弥陀仏は感謝の行と呼ばれています。

 念仏「南無阿弥陀仏」、難しい言葉ですね、でも我々は日常お念仏を口にしているのです。南無阿弥陀仏は感謝の行とすれば挨拶です。挨拶は、自分がこの場に居る確認であり、生かされていることに感謝する、その感謝の気持ちが言葉になって出てきた、おはよう、ありがとう、ごめんなさい、お陰様で、を大切にして真実の信心をいただいてみたいと思います。両親の愛情と同じく、すでにいただいているものですので、それに気がつくのは、最終的には自分の受け皿の問題だと思います。ありがとうと素直に言える自分がここにいます、少しですがお念仏の心がでてきたのだとおもいます

 これからもお念仏の心、感謝の気持ちを忘れないようにして一日一日を大切にいきたいです。

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