飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2025年1月1日

北條 良樹 (了泉寺前住職)

第161話 自力と他力 ―他力回向の念仏―

 自分は大して努力せずに他人の力を当てにして旨い汁を吸おうとする事は批判されます。
 他人頼りを批判する表現として「他力ではダメ」という言い方があります。
 先日「自力でなくちゃダメ、他力本願ではダメ」という言葉がテレビから流れてきておや?と思いました。
 自力は自分の力ですが、他力は他人の力と理解したのでしょう。 
 親鸞聖人はとことん自力を尽くされた方です。自力を尽くしても尽くしきれない先に感得された世界が他力の世界です。
 それで浄土真宗では他力は佛力の事であり決して他人の力の意味には用いないのです。 世間一般には他力は文字通り他人の力と理解されるのでしょうが、真宗の思想を語る時は他力は佛力、仏様の働きに限定して用いるのです。
 ましてや他力本願と本願をつけて他力本願ではだめと言うことは真宗門徒の思想からは出てきません。  

 お念仏の事を語る時には、間違いを避けるために「他力回向(えこう)の念佛」と回向の言葉を添えて語ります。
 他力回向とは佛様から差し向けて下さったという意味です。
 如来回向とも言います。回向と言うのは振り向ける、という意味で仏道修行の中で、自ら修めた善行を自己や他者の利益のために振り向ける事を表す概念ですが、如来回向となると仏様から私達にふりむけて下さったという意味になります。
 親鸞聖人は、自分が称える念仏は仏様から私達に差し向けてくださったのだから、如来様から賜わった念佛なのだと受け止められました。
 如来回向の真実信心を賜った結果申されるお念仏は、如来回向の念佛です。
 従って自分から一所懸命努力し励んで勤めるお念仏では無く、称えるお念仏の回数を誇ることもありません。お念仏の功徳はひとえに仏様に属し、真実信心をもってお念佛申す人は摂取不捨の利益に預かるのだと確信されたのです。

  真実信心の称名は
   弥陀回向の法なれば
   不回向と名づけてぞ
   自力の称念きらはるる(「正像末和讃」)

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