飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2024年12月15日

三島 見らん (西念寺住職)

第160話 「賽の河原」

 読者は『地獄絵図』をご覧になったことがあるだろうか?私は小さい頃に見た『地獄絵図(※飛騨古川・林昌寺蔵)』の衝撃を今でも覚えている。絵の鬼の形相はどれも笑っているように見え、容赦ない責め苦を受けている罪人の悲鳴が今にも聞こえてくるようだった。私は鬼に「お前が死んだ後、ここで待っているからな」と言われているような気がして怖くなり、踵を返して逃げるようにして帰った。全身が恐怖ですくむ経験はあれが初めてだった。

 地獄にいる罪人の受ける責苦は、生前犯してきた罪に対応した形の罰を受けることは広く知られている。ただ一箇所だけよく分からない場所が私にはあった。そこは「賽の河原」だ。ご存知だと思うが、親より先に亡くなった子は此処へ送られ、三途の川辺にある石を積み上げることを鬼から強いられる。子は精一杯積み上げ終えると、鬼はそれを棍棒で突いたり蹴ったりして壊してしまう。鬼の行為が何を意味しているのか理解できず、その表情もなんだか物悲しげに見えた。

 その意味を知るヒントを与えてくれたのは、在家出身で僧侶になることを目指している青年だった。彼は縁あって北海道のお寺で法務を手伝う中、ある日住職から枕経を頼まれ二つ返事で受けたそうだ。しかし亡くなったのが赤子だと知り、自分には荷が重いという理由で即座に断ったそうだ。その時、住職からこう言われたのだという。「お前は、人生の良し悪しを寿命の長さで決めているだろう。一歳で亡くなろうと、百歳で亡くなろうと、一人のかけがえのない一生涯であることを忘れるな」と、一喝された話を聞かせてくれた。住職のその言葉を耳にした時、脳裏に浮かんだのが「賽の河原」だった。

 きっと子が積み上げた「石の数」はその子が亡くなった「年齢」なのだろう。そう考えるならば、「石の数」にこだわりつづけている私たちの在り方が見えてくる。早死は不幸、長生きは大往生と謳う私たちは明らかに見落としているものがある。それは、「短くとも(石は少なくとも)、その子にとっては掛け替えのない一生涯(石積み)だ」ということを。子が実際に歩んだ人生を喜ぶより、歩んでもいない幻の人生に悲嘆する姿勢こそ、積み石を壊す鬼と一緒ではないだろうか。

 この絵は私たちの当たり前の感覚こそが「地獄」を創造している元(因)である事を教えているのではないだろうか?

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