2024年12月1日
細川 清美 (淨慶寺衆徒)
第159話 正見
私は今、縁あって真宗大谷派教師資格取得のため大学で学んでいます。ある講義の中で、八正道の中の一つ「正見」(正しく物事を見る)という事を学んだ時に、ふと思い出したことがありました。
私は、大学入学前まで老人施設の看護師をしていました。老人施設では介護士など異なる専門の立場の方たちと話し合いをします。その中で、意見の食い違いからお互い譲りあえない時があります。
例えばAさんという、押し車を使いながらでも、ある程度は自分で日常生活を送っている方がいました。ある日、Aさんは転んでしまい足を骨折し病院で治療をしました。その後、施設に戻ってきましたが、痛みが残り、スムーズに立てなくなっていました。そのため今後どのようなケアをすべきか話し合いをすることになりました。介護士は少しでも以前のような自立した日常生活を送ってほしいという生活の質を中心とした考えで、一方看護師はまた転んで悪化したら本当に立てなくなり、寝たきり生活になってしまう可能性があるという医療的・病院的な考え方で意見が分かれました。簡単に答えの出ない内容です。しかしケアの方向性を決めておかないと、明日からのケア内容の変更点としてスタッフに周知できないため、結論を急ぎがちになってしまいます。すると自分の意見は間違っていない、あなたが間違っているとお互いに歩み寄りができなくなってしまいます。「正見」とは逆の、正しい見解を持たない、自分の物差し、自分の価値観、一方向でしか見ることができなくなってしまっている状態です。急がず、焦らずの気持ちで妥協点を探りながら、さらに話し合いを続けて行くのがベストであるとわかっています。しかし、その場ではできなくなることがあるという過去の仕事の経験から「正見」ということが確認できたと思いました。
ある講義で先生が「仏教はご飯を食べているみたいなもの」と言いました。この言葉は清沢満之氏の言葉で、「自身で課題をかみ砕いて学び答えを出す」ということだそうです。今後も仏教の視点から課題をかみ砕いていけるように問い続けていきたいと思います。