2024年11月15日
光本 智見 (南春寺住職)
第158話 「いのち」に出会う
お釈迦様とか親鸞聖人という方は、私たちに「仏道」を明らかにしてくだされた尊い方であると私は受け止めております。
それでは「仏道」に出会うとはどういうことなのでしょうか?
私たちはいつも自分の思い通りに生きたいと願い、自分の思い通りに生きることが幸せであると思い込んでおります。したがって、自分の思い通りにならなければ、怒ってみたり、怨んでみたり、祟ってみたり出てみたり、という愚かな生活を繰り返しております。それ故、悩んだり苦しんだりという生き方をしているのですが、こうした生き方を乗り越える「法」は、ないのでしょうか。
ずいぶん昔の話でおそれいりますが、とても元気の良すぎる生徒と相談室で対峙したことがありました。その時に彼が発した言葉の中に「俺は俺が好きなように生きていく。何が悪いのか」と私をキッと見据え放った一言が、今も印象に残っております。彼はきっと「俺の苦しい本当の胸の内がお前にはわかるのか。わかる筈はないだろう」と私に挑戦してきているような空気を感じました。
しばしの静寂が続いた後、開口一番「今お前の胸のところで動いている心臓は誰のモノか?」と尋ねました。彼はしばしキョトンとしておりましたが、数十秒も過ぎた頃に「俺のモノだ」と答えてくれました。そこで私は間髪を入れず「じゃお前の心臓ならば、1分間だけでよいから止めてみせろ」と迫りました。すると彼は「そんなこと出来るはずがない」と・・・。すかさず私は「今お前は自分のモノだと言ったじゃないか。自分のモノなら自分の思うとおりにできる筈じゃないか。お前は俺に出鱈目を言ったのか」と声を荒げ迫りました。そうこう問答的な言葉のやり取りをそているうちに彼は<心臓を動かしているのは自分の力ではない。何か別の力があるのか>ということに気づいたのでしょう。ゆっくりと、しかも小さな声で私に「神か」と一言・・・。
私は「神」でなく「仏」と言ってほしかったのですが、今はこの流れを止めるべきではないと判断し、力強い声で「正解」と・・・。そして「でも、何故お前を生かしてくださっているのか。お前不思議と思わんか」と問題を提示して最後は和やかな幕引きで終わりました。
このように、彼が今まで思いも考えもしなかった世界に一歩足を踏み入れた相を『仏道に出会う』というのだと思います。こう受け止めますと、私たちも無意識ですが『仏道に出会う』日々を生きさせていただいている事実を自覚すべきではないでしょうか。 合掌