飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2024年11月1日

上清水 信男 (西蓮寺衆徒)

第157話 あわれというも中々なかなかおろかなり

 B君は三十年間精神病棟で暮らしていました。

 彼は子どもの頃から気は優しくて穏やかな、誰とも喧嘩することの無い、どちらかといえば独りで過ごすことを好んでいたようです

 高校卒業後、親元を離れ社会人として日々真面目に勤務し、青春を謳歌していました(と思いたいのですが)。

 入社してから一年ほどしてから同じ会社の社員との関係がこじれ、ひとり悶々とした日々が続きます。その思いを上司に伝えますが、「ガマンしろ」のひとこと。しかしそのガマンも限界を越え暴力沙汰になりました。そのことを家族にも知らされ実家に戻ることになります。実家での生活の中でカウンセリング等の治療を受診し統合失調症と診断されました。彼が二十歳の時です。

 毎日の生活は不安定な状況が続き症状は悪化する一方です。やがて家族にも暴行を加えるようになり、やむなく精神科病棟に強制入院することになりました。以来三十年にわたる精神科病棟での治療生活が始まります。十年、二十年、三十年が過ぎ体力の衰えと同時に心も萎えてくるようです。月一回の面会は筆談での会話が多くなりました。差し入れを持っていくと嬉しそうです。特にセブンイレブンのコーヒーとシュークリームがお気に入りです。

ある日、本人から実家に戻りたいとの申し出がありました。三十年間離れて暮らしていた家族にしてみれば一抹の不安がありましたが、主治医と相談し一泊二日の外泊が許可されました。その夜はお互い緊張もありながらの三十年ぶりの親子の団らんでした。翌朝B君は精神科病棟に戻りました。両親はどんな思いだったのでしょう。

 程なく父親が亡くなりました。

 表題の「あわれというも中々おろかなり」とは、蓮如上人が書かれた「白骨の御文」の中に出てくる言葉です。「どんなに悲しんでもその悲しみは尽きることはない」「どれだけ泪を流してもとめどなくあふれてくる」という気持ちを「あわれというも中々おろかなり」と私に届けてくれました。

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