2024年9月15日
鍋山 雅實 (寳圓寺前住職)
第154話 始末の悪い自尊心
スーパーへ買い物に行った時のこと、レジに並んで自分の番になった。「カード支払いでお願いします」と言って待っていた。レジ打ちが終わった後「お支払いはどうされますか?」と言われた。「カードで」と言ったが、腹の中は収まらない。前もってあれだけはっきり言ったのに!自分にも落ち度がないように、相手にも面倒掛けないように、と前もってちゃんと言ったのに!と。
ある時はこんなことがあった。家の玄関に段ボール箱が置いてあった。妻が何かを取り出した後の空き箱だった。そのうち片付けるだろうと思っていたが二日ほど経ってもそのままだった。これは目障りになると片付けておいた。翌日、「玄関の段ボールどこへやった!」と怒り声で言ってきた。「邪魔なので片付けておいた」と言うと「使うつもりでそのままにしておいたんやさ」と言う。「ハイ、ハイ」とまた持ってきたが、腹の中は収まらない。玄関にいつまでも置いておいてはよくないので親切に片付けておいたのに!自分は良いことをしたのに、自分は悪くないのに。相手に落ち度があるのに、と自分が傷つけられたことに腹が立つ。相手の想いや相手の状況には全く想いが行かない。〔おれが、おれが、自分こそが良くて、自分こそが正しくて、落ち度があるのは周りに原因がある〕この根性はとことん抜けきらない。
お釈迦さまは、私たちが存在しているのは人智では計り知れない不可思議な力により存在しているのだ、と気づかれた。法然さまや親鸞さまは、私たちの存在というものは、ウサギの毛の先についた小さな塵(チリ)ほどの小さな些細ことも全て不可思議な力によって成り立っている。自分の中に自分のものというものはない。全て他力によっていただいているものだと教えられた。私も周りの人達も全て他力によって生かされている不思議な存在であり、仏さまの前では全く対等な平等な関係なのだ、と教えられた。人智のかなわない不可思議な力に生かされていることに感謝して生きていくのです。と教えて下さった。
そんな想いもよぎった翌朝のこと。畑から野菜を採って帰ると、「やっと無くなったのに又採ってきたの!」と妻の声。せっかく俺が育てて俺が採ってきてやったのに!と腹の中。自分のものでないものを自分のものにして〔俺が俺がの根性〕はいつまでも続いて収まらない。ナム、アミダブツと頭が下がりません。