飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2024年8月15日

野崎 尚斉 (西正寺住職)

第152話 私の「いのち」

 人間の長い歴史を振り返っても、私は一人しか存在しません。そしてこれから先も二度と誕生するこのとない私の「いのち」であります。

 毎日があっという間に過ぎていきます。しかしその瞬く間の一日も二度と繰り返されることはありませんが、この一瞬一瞬が無数の縁によって支えられ成り立っている、まさに、偶然と驚きの時なのです。

 ところが毎日荷が当たり前に繰り返されるように感じていると、その感動は薄れ、感謝することなど考えられなくなってしまっているのではないでしょうか。

 『仏説無量寿経』に、人の姿を「人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独り生まれ独り死に独り来て独り去るのである」とお示しになり、さらにその後に「みずから之を受ける。変わる者有ること無し」と誠に厳しいお言葉で顕されています。このお言葉は、私の人生は誰にも代わってもらうことは叶わず、さらには孤独な人生を淋しさでしか終われない存在であるということを示す為だけに説かれたご文なのでしょうか。

 阿弥陀如来という仏さまは私が気付くよりはるか前から、この生死真っ只中の私の「いのち」をお救いの目当てとされ「ひとりじゃないんだよ。ともに歩いていこう」と名乗ってくださった仏さまです。そのお心は南無阿弥陀仏という言葉の仏さまとして、私たちに満ち満ちてくれたのであります。孤独で終わるはずの人生に、「終わりじゃないんだよ。仏と成り、始まると思っておくれ」とその意味を転換して下さった仏さまであります。

 誰もがそれぞれの人生を歩みながら、散っていくのではなく、共に浄土という処で再び会わせて頂ける。そのことを思うとき、別々の「いのち」はつながっている「いのち」であり、安心できる「いのち」をいただいている。阿弥陀如来によるすくいのはたらきにより、浄土の世界に生まれていける私であることには、有り難さとご恩を感じずにはいられないのではないでしょうか。

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