飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2024年7月15日

藤守 博 (一念寺住職)

第150話 とも(倶)に会う同じ所(一処)で

 十年ほど前「かぐや姫の物語」という映画のテーマ曲の中で「必ずまた会える 懐かしい場所で」と歌われていて、ずっと心に残っている。この1月、二人の兄を同時に亡くした。正確には1日ずれているのだが、同じ日に知らせが来た。葬儀が慌ただしく流れていく中で、「なんでや」と「独りになってまった」との思いが交錯しうろたえてしまった。これは諸行無常の道理なんだ、と分かった風に話していたのが、自分事となると全く受け入れられないのである。空の輝きは虚しく悲しくてやりきれない。半年が過ぎ悲しさは寂しさと重なってくる。先の歌詞「必ずまた会える懐かしい場所で」が浮かんできた。浄土が建立されたのは、このような自分のためであったのかなあ、と想像する。しかしなお固執しているのは、自分の身内と会える場所が懐かしいのであり、「無量寿」と教えられる個々の感情を超えた「倶会一処」とは遠く隔たりがあるのであろう。

 ひるがえって、ウクライナとロシア、またガザでのユダヤ、アラブ間の歴史的な怨みが怨みを生んでいく争いによって亡くなっていく人々、その悲しみは私の比ではないだろう。私は悲しいけれど父母も兄たちも死ななければならない身を受けて死んで行った。しかし死ななくてもいい人びとのいのちが、幼いいのちが、人為的に奪われていく殺戮。釈尊は「怨みに報いるに怨みをもってすれば、ついに怨みはやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である」と言われ、「兵(兵隊)戈(矛、武器)無用」と説かれた。以来二千七百年を経てもいのちは奪われ続けている。どこまで人間は、私は愚かなのだろう。「倶会一処」安住の地は、弥勒菩薩が下りられる五十六億七千万年の後まで待たねばならないのだろうか?

 再び先の歌詞だが「いまのすべては過去のすべて、必ずまた会える懐かしい場所で」そして「いまのすべては未来の希望、必ず憶えてる懐かしい場所で」と続く。タイトルは「いのちの記憶」である。

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