飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2024年6月15日

小原 宗成 (圓龍寺住職)

第148話 なぜ称名念仏(しょうみょうねんぶつ)というのか

 暗い夜道(人生)を不安なく歩くには明かり( りどころ)が必要です。そして、その明かりを自前で用意できない私たちのために、阿弥陀さまが用意してくださったのが、【名号みょうごう(仏さまのお名前)】です。仏のみな、すなわち【南無阿弥陀仏なむあみだぶつ】の中に、完成品の明かりが込められています。

 口に出して声に出して「南無阿弥陀仏」ととなえる、それが浄土真宗の称名念仏です。では、なぜ声に出さないといけないのでしょうか。

 例え小さくても、声に出すことで音になります。音になるからこそ、私たちは自分の耳で“聞く”ことができる。“聞く”というのは受け取る、ということです。声にすることで、私たちは阿弥陀さまが用意してくださった明かりを受け取ることができる、だからこそ、声に出してお念仏するのです。

 また、称名念仏というように、私たちの念仏は仏の名を“たたえる”ものです。称える声が響けば響くほど、それを耳にする人にもその中身が伝わっていきます。世間で評判になったアニメや漫画、あるいは偉業を達成したスポーツ選手の名前を耳にし続けていると、元々それらに全く興味がなかったとしても、多くの人が称えるその名を、業績を、内容を、おのずと知るようになり、ときには興味がなかったはずのそれらにハマっていく、そんな経験はないでしょうか?

 それと同じように、私たちが今こうして南無阿弥陀仏とお念仏を申すことになったのは、私たちが、どこかで「南無阿弥陀仏」と仏のみなとなえる声を聞いてきたからです。そうして、声に出して称名念仏する人の姿を、親鸞聖人は【諸仏しょぶつ】として仰がれました。合掌し、声に出して念仏する人の姿が、何か尊い姿に感じるのは、そこに【仏さまの尊さ】が宿っているからなのだと味わわせていただきます。お念仏申しましょう。

合 掌

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