飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2024年6月1日

伊達 俊幸 (稱讃寺住職)

第147話 「正信偈」おつとめしてますか?

 近年、新型コロナウイルスの影響もあってお通夜の会場でお勤めする「正信偈(しょうしんげ)」の声がだんだん小さくなって聞こえなくなっています。浄土真宗では様々な場面で「正信偈」をお勤めいたします。

 「正信偈」は御開山親鸞聖人が、お念仏の教えに出会われた喜びを歌にされたものです。そこには「これで私も生きていくことも死んでいくこともできる、満足の人生が歩める」という親鸞聖人の喜びがあふれています。私たちの現実はどこか「生きても生ききれない」「死んでも死にきれない」ような命を生きているのではないでしょうか。そんな私たちに親鸞聖人は「あなたもお念仏してください」と、私たちに「南無阿弥陀仏」を生きる道を勧(すす)めてくださっています。

 「南無阿弥陀仏」の阿弥陀さまは、生きとし生けるものすべてを慈(いつく)しむ「平等の慈悲」に生きておられる方です。以前、東本願寺で「夏の子どものつどい」に来た子が、その阿弥陀さまの平等の心を聞いて、みんなの前で「わたしも阿弥陀さまみたいになりたい」と言って大泣きに泣いたそうです。想像しますに、その子もこの現実において不平等を生きざるを得ない自分自身を嘆いていたのではないでしょうか。すべての人と手をつないで生きていきたいのに、時には誰かと手をつなぐことができない事情や、あの子とは遊びたくないといった感情などに出くわすのが私たちです。そんな毎日にあってどこか心に「ごめんね」と思っていたのではないでしょうか。そうですから「私も阿弥陀さまのようになりたい」と願ったのでしょうね。

 「南無阿弥陀仏」の言葉は、阿弥陀さんみたいになりたいとの思いを表す言葉です。そしてこの念仏にはどのような阿弥陀様の願いが込められているか、その「いわれ」を伝えているのが「正信偈」です。その「いわれ」をたずねていくという姿が「正信偈」をお勤めするということです。蓮如上人も「この念仏のいわれをよくしりたるひとこそ、ほとけにはなるべけれ。」とおっしゃいます。私自身も今一度「正信偈」を大切にお勤めしようと思います。どうか皆さまも大切にお勤めください。

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