飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2024年4月1日

小倉 輝穂 (圓城寺住職)

第143話 ある別離

 私は父親を交通事故で亡くしました。「朝には厚顔ありて、夕には白骨となれる身なり」のごとく突然の別離でした。そろそろ、自坊のこと、住職業のこと、遠縁の親戚のことなど、真剣に聞いて継承しなければと思った矢先の出来事で、甚だ自分勝手な言い分ですが未だに悔やまれます。

 つい最近、叔父との別離がありました。叔父は1年半前に脳梗塞を患い、その後遺症で言葉を発することができなくなりました。そんな叔父が年明けに体調を崩して入院し、治療をしていましたが、食事が摂れなくなり徐々に体力が消耗していきました。叔母やこどもたちは、最期は自宅で看取りたいとの思いもあり、退院の許可を医師に申し入れました。医師からは、「自宅までの移動の途中で容態が急変するかもしれない、医者として許可することはできない」と話されたそうです。医師の言葉に対し、言葉を発することができない叔父は、顔をしかめ、首を横に振って、自宅に帰りたいとできる限りのボディランゲージで意思表示をしたそうです。そんな叔父の姿を見た看護スタッフの皆さんが、「自宅まで私たちが付き添うから、本人の思いを聞こうよ」と後押ししてくれ、退院が叶いました。叔父は自宅に着くと、しかめっ面の表情が笑顔に変わり、下がっていた血圧も上がり、帰るべき場所に帰ることができたことに喜んでいました。「お父さんの人生は幸せやった?」、声を出すことのできない叔父は、大きく頷いたそうです。退院して4日後、 家族に看取られ眠るように75年の生涯を終え浄土に還りました。

 近しい人を亡くして悲しくないわけはありません。人知れず涙を流していたのかもしれませんが、お通夜、葬儀を通して叔母やこどもたちの気丈な振る舞いが印象的でした。自分自身の死期を悟り、その家族も身近に迫った死を受け容れ、いのちと向き合った尊い時間を持つことができた人たちの見送りなのでしょうか。

 命あるもの必ずいつかは死ぬことを、誰しも道理として理解しています。とは言え、生きていることのみが自分であって、同時に死があることを意識できる人はそうそういません。叔父家族は、病気によって介護される身となった不都合な現実(ご縁)をそれぞれの立場で受け止め、介護される側も、する側も、お互い感謝の日々だったようです。1年半の介護の日々を経て、最期の4日間で、家族みんなが叔父の生きざまを振り返り、死んでいくいのちではなく、浄土に生まれ往くいのちであることを確認できたからこその、葬儀の時の立ち居振舞いだったように思います。

 時がたち日常が戻った時、不意に叔父のことを思い起こし、寂しくなることでしょう。そんな叔父家族に句を贈ります。

「念仏は 亡き人との 合言葉」  三島多聞氏

 諸仏となられ、すぐそばに寄り添っているよ。

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