飛騨御坊・高山別院照蓮寺・真宗大谷派 岐阜高山教区 高山教務支所

ひだ御坊一口法話

2024年3月15日

細川 隆一 (淨慶寺候補衆徒)

第142話 「み光のもと われ今さいわいに この浄き食をうく いただきます」

 私たち真宗門徒(真宗大谷派)の食前の言葉です。

「ご縁あって 今、有難いことに この食事を頂戴することができ、生かさせてもらえます。 いただきます。」と、このように私は受け取らせてもらっています。

 ご本山である真宗本廟(東本願寺)に、帰敬式や奉仕団などで上山されたことのある方ならご存じではないでしょうか。同朋会館にて食事の際に、この食前の言葉をご唱和されたと思います。

 私たち生きているものは、必ず食事を摂らなくては生きることができません。それは日常生活の中でも最も基本となることではないでしょうか。食事を摂るということは、肉となる動物はもちろんのこと、野菜もそうですが、ご縁があって生き物の命をいただくことができていることであります。そのことを忘れて、あたりまえのように漫然と食事をしていないかと、問われている言葉だと思います。

 私自身、同朋会館へ行く機会が多くあり、食前の言葉を唱和してから食事を摂りますが、その時はゆっくりと丁寧に味わって食べることができて、普段よりおいしいと感じます。

 では普段はというと、朝で言えば、仕事へ行かなくちゃいけないという思いもあり、急いだ感じで食事しています。何を食べたかもすぐに忘れてしまいます。昼も弁当をゆっくりと食べることができるかと言えば、会社の状況によっては、さっさと食べて仕事をしなければならないということがあります。仕事以外でも家事にしても、慌ただしく生活をしていると、お腹を満たすことが中心となってしまいます。これでは他の生き物の命をいただいて、生かさせてもらっているということから考えると、命を軽視する失礼なことだなと思います。もっと言うなら、食前の言葉に立ち返ると、食べることができるということは、懸命に生きてきた大切な多くの命をいただき、お陰様で支えられて生きている我が身であるということです。大切となることは、ゆっくりとしっかり味わって、感謝しながらいただくべきではないかと思います。

 しかし、私たち人間というのは、先ほどのように、仕事にウエイトを置いた考えが通常運転であり、普段から常にそういったことを意識するということが難しく、社会生活に追われて忙しいと全く意識できないと思います。かといって、社会生活を送らなくてはならない我々現代人の状況を加味すると、難しいことなのかもしれません。ただ、休日や、少しでも余裕のある日もあるかと思います。そんな時、食前の言葉を言えたら良いのですが、食前の言葉を意識するだけでも、命を頂戴して生かさせてもらっていることを感じることができるのではないでしょうか。いつも常にとはいきませんが、時々でも意識してもらえたらと思います。

 最後に食後の言葉も付け加えておきます。

「われ今 この浄き食を終わりて 心ゆたかに力身にみつ ごちそうさまでした」

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